世に「なかった主義」の...

今やまともな歴史家でニュールンベルク裁判の結論を全面的に認めるものはいない。強制収容所があったことを私は疑問に付すものではないが、死者の数について歴史家が議論できてもいいはずだ。ガス室の存在についていえば、どういう判断をするかはそれぞれの歴史家の自由だ。

il n'y a plus un historien sérieux qui adhère intégralement aux conclusions du procès de Nuremberg. Je ne remets pas en cause l'existence des camps de concentration mais, sur le nombre de morts, les historiens pourraient en discuter. Quant à l'existence des chambres à gaz, il appartient aux historiens de se déterminer.

France Google Newsで現在200件近い記事となり現在でもいろいろな派生的ニュースを生みながら進行中の騒動の発端となったある極右政党政治家の1週間前の発言。

発言の主は国民戦線 Front National のナンバー2で欧州議会議員のブルーノ・ゴルニッシュ Bruno Gollnisch 氏。リヨン大学の教授(専門は日本文化)でもある。ゴルニッシュ氏が10月11日に、国民戦線の政治方針をテーマとする記者会見の席で、ホロコーストの歴史見直しの問題に触れた上の発言は、翌日の新聞で大問題となり、時に強い批判的論調を伴って報道された*1

フランスではドイツその他複数の欧州諸国と同じく、ニュールンベルク裁判で定義された「人道に関する犯罪」の存在を否定する発言を行うことは犯罪にあたる。なんらかの政治的意図をもってその大きさを通説より過少に宣伝しようとする行為もこの範疇に含まれ告発、訴追の対象となる。実際、国民戦線の党首のル・ペン氏が「ガス室の問題は第二次世界大戦の細部にすぎない」という旨の発言で2度にわたって有罪の判決を受け、欧州議会議員の議員特権を剥奪されたのはよく知られている。表現の自由との関係でのその是非や虚偽のプロパガンダを防ぐための有効性についての議論にはここでは入らない。とにかく「歴史修正主義 révisionnisme」、「なかった主義 négationnisme」 に対するフランスやドイツなどの常識とはこういうものだ。もし上のゴルニッシュ氏の発言を一読して「なるほどもっとも」と思う常識があるとしたら、その常識は今のフランスのものではない。こうした発言でも、公人としては極めて危険なものである。現にゴルニッシュ氏に対してはリヨン大学が停職措置を求めて教育省に報告書の提出を予定しており、法務大臣も訴追の意図を表明している。ただしあきらかにぎりぎりの挑発を狙ってなされたこの戦略的な発言がこの先どう法的に決着がつくかは定かではない。

そんなニュースを紹介するまいかどうか思っている間に、id:Soredaさん、id:kmiuraさん、id:swan_slab さんのところで南京大虐殺を題材にしたマンガへの抗議活動と結果としての休載の問題を知る。id:kmiura さんがその中で、「日本の常識と世界の常識の落差を背負って議論しなければいけないのは、在外の人間」という発言をされているが、世界の常識かどうかは別として、この事件をとりかこむ日本の常識と、上で紹介したような事件が起こっているフランスを含む大陸側西欧の常識の間には絶望的とすら言える断絶がある。戦後処理の仕方、その後の歴史に関してそれぞれ事情があることは考慮しなければならず、一概に片方の価値観で片方を断罪すればいいというものではないが、落差はあくまでも落差であり、この落差は事実としてだけでも多くの人に意識してほしいという気持ちはある。

このブログをはじめたころにこの問題にもいつか触れることになるだろうとは思っていたものの、自分が日本で過ごしていなかった間にますます広がった落差の大きさを知るにつれ−−今回の件でも複数のブログやそこでやりとりされるコメントを見てその落差の認識がますます大きくなったわけだが−−、そうした欧州の側の常識を語ることすら果たして意味があるのかという疑問がしだいに大きくなっていた。しかし今回の偶然の符合をとらえ、自分の中でも語る気力がうせないうちにこれを機会として若干書いてみたい気になった。歴史修正主義や「なかった主義」に対する司法や世論の反応のしかたの落差については、上の例でじゅうぶんだろう。南京大虐殺をめぐる議論の中で私が感じる落差、あるいは個人的違和感にあと次の2点がある。

ひとつは、南京大虐殺の「大虐殺」という語と犠牲者の数の関係をめぐるものである。有名な30万人という数字をはじめとして、数万人、数千人といった説、また極めて少数説の「まったくなかった」を匂わせるものまで段階があるようだ。様々な状況証拠、推論を用いて30万人の数を10分の1、100分の1、1000分の1に減じるという「検証」がいろいろとある。その過程で「「大虐殺」というのは政治的プロパガンダだ」という趣旨のこれまた政治的な発言がしばしば伴われる。戦闘終結後に故意に殺された戦闘員、そして一般の市民の数がゼロになれば大虐殺という形容どころか、事件がなかったことになる。しかしある程度の数の犠牲者が出たとして、「大虐殺」という語を使わなくても済むようになるにはどのくらい数を減らせばいいのだろうか。これが現代史の歴史的問題として国際的に−−たとえばフランス語圏で−−とりあげられたときのことを想定して考えてみる。

南京大虐殺をフランス語では、le massacre de Nankin (Nanjing) の名で呼ぶ。英語ではmassacreの語を使うとか使わないとかいう妙な話にちらりと出くわしたが、とにかくフランス語ではそうだ。massacre の意味は、たいていのフランス語の辞書には、「多数の人間を残虐に(特に抵抗する手段のない相手を)殺すこと」というような定義がついている。この massacre の語は日本語で「大虐殺」あるいは単に「虐殺」と訳されるが、日本語の「虐殺」の定義には様態の概念はあるが数の概念を含まないため(一人でも「虐殺」)か、大量という概念を表すため「大虐殺」という訳を当てるのは理解できる。一方、同じく日本語で「大虐殺」と訳されることも多い génocide ジェノサイドは、「特定のエスニックグループを系統的にせん滅すること」という定義であり、さらに高次の要素が加わる。南京の事件の際には génocide は問題にはならない(ついでにいうと、ダルフールの場合に、日本語の報道では問題の焦点がぼけがちになっているが、「大虐殺」の認識をめぐって欧州とアメリカで議論になったのは、massacre か génocide かという性格の違いであり、犠牲者の数の問題ではない)。

犠牲者がどのくらいの数になれば一般に歴史的事件として massacre と呼ばれるのか。フランス語の massacre という語で誰しもにすぐ思う浮かぶ1572年の「聖バルテルミーの大虐殺」の犠牲者が3万人と言われる。ただし歴史的にかなり遠い事件だ。第二次世界大戦に話をもってくれば、フランス国内で敵国、つまりこの場合ナチスによって行われた大虐殺で、フランスでやはり誰もが思い出す最大のものが、1944年6月10日のオラドゥール・スゥル・グランヌ村の大虐殺(le massacre d'Oradour sur Glane) だが、このときの犠牲者が642人。小さな村の一般の村人特に女性(246人)、子供(213人)が殺害されたということでその残虐性がいつまでも語り継がれる。この事件の今年の追悼式典でのラファラン首相の演説は首相官邸のサイトで読めるが、その中のキーフレーズの一つが、「絶対に、フランスはこれを忘れていない。絶対に、フランスはこれを忘れないだろう Jamais, la France ne l'a oublié. Jamais, la France ne l'oubliera.」。バイエルン州の大臣がドイツの代表者としてはじめて式典に出席を許されて花束を捧げることのできたのは2000年のことだ。ドイツ側が来たくなかったのではない。順調のように見える仏独和解の歴史の中でさえ、それでも住民感情がそれを拒否しつづけてきたのである。虐殺の被害にあった側の感情とはそうしたものだ。

他の massacre の例をみるとどうか。フランス語版の Wikipédia に 「Liste des massacres 大虐殺一覧」という年表がある。この中で massacre de Nankin と同時期にあるものとしては、ユダヤ人とジプシーのジェノサイドだが、"massacre"という名でリストアップされているもので時代をさかのぼっていちばん近いものは 1919年の「アムリトサルの大虐殺 massacre d'Amritsar」。これは植民地下のインドでイギリス軍がデモ隊の住民に発砲し397人が死亡した事件。逆に時代を下って近傍にあるものは1940年のポーランドの「カチンの森の大虐殺事件 Massacre de Katyń」。ソ連軍が逮捕し捕虜としたポーランドの士官や知識人のうち25,700人を殺害とWikipediaは記述する。Wikipedia の性質上、いろいろ留保はつき、これが完全なリストとは思えない*2が、一般に「大虐殺 massacre」と考えられているものがどんなものかのイメージはつかめる。その文脈に置いて考えるとき、「南京大虐殺」を歴史的な「大虐殺」事件の範疇からはずすには、被害者数や一般市民殺害の事実についてよほど極端な事実認識が必要である。数万人、数千人という数をもって、「大虐殺」の批難から免罪されるといわんばかりの政治的効果をねらった発言がどれほど滑稽か、というより、このような文脈で歴史を捉えている人々にどれほど身の毛のよだつような強弁に写るかということは冷静に考えてみる必要がある。

もう一つ私が個人的にどうしても違和感を禁じ得ないのは、「百人斬り」をめぐる議論である。事実があったかどうかについてテクニカルな問題で長い議論があることは知っている。2人は新聞記者の創作による被害者であるとして裁判争われていることも知っているし、またあらためていくつかの関連サイトで読んだ。殺害の事実関係について軽々しく口をはさむつもりはない。私が「事実」としてショックを受けるのは、2人の兵士が100人の中国人を競争で日本刀で斬ったかどうかよりも、それが読者の興味をひく記事として当時の新聞に堂々と大きく掲載され、戦意高揚とまで考えられていたまぎれもない事実、そうした事実が報道されながら軍もなんら問題にすることもなかった事実であり、そうしたことがまかり通っていた、当時の日本の文明としてのありかたである。私はこの事件が新聞記者の創作であればなおのこといっそう、それをよかれと思ってやった新聞記者の世論に対する感覚を思い慄然とする。この事件が事実かどうかのかまびすしい議論の向こうに、日本人の中にたまたま2人だけ残虐な行動をした者がいたということの事実の確定にとどまらないもっと大きい問題として、当時の日本人が心性において大虐殺者だったというイメージが控えている。もし2人の行為が汚名であれば遺族には最後まで闘い真実を求める権利がある。しかしこの問題を政治的に解釈し、これが新聞の創作であることが証明されれば、日本人の汚名が返上できるといわんばかりの論をはるものは、この点に関する日本人全体の名誉についてどう考えるのだろうか。

1930年代の戦争中、そうした事がまかりとおっていたのは日本だけではない。ナチスが何をやったか誰でも知っている。当時のモラルの許容基準はイラクの刑務所で拷問があったということで国際世論が沸騰する2004年のそれとは違う。100年前、200年前をさかのぼればもっと残虐なことがあり人々が当然のように受け入れ喜びさえしていた。連合国軍は無差別爆撃を行い、アメリカは2発の原爆を一般市民の上に落とした。フランスは第二次大戦の後にインドシナで残虐な戦争をつづけたし、アルジェリアで拷問を−−拷問の事実を告発する人々がいて、政府が事実を頑なに隠蔽し否定せざるを得ない時代の空気までにはなっていたにせよ−−行った。

こうしたことすべてを考えながら、過去を時代の文脈におき、人々の行動を相対主義の相のもとで理解することは確かに必要かも知れない。しかしまたわれわれには、現代につながる近過去を、新しく獲得した現代の価値基準で見、そこからショックを受け、受け入れられないものとしてはねつける権利も義務もあると私は信じる。もし理解という行為があるとすればそれはその権利を行使してからのことだ。

1937年に「百人斬り」の記事を興味津々で読んでいた子供は私の父の世代であり、それを英雄的行為として引き受けたり、それをたたえる記事を書いた人々は私の叔父や祖父の世代にあたる。私はそうした人々が支配する時代の中で教育を受け、生きてきた。そして、彼らがそうした行為を即座におぞましいものとして拒絶できなかったその心性の一部を私自身が引き継いでいるのを時に感じる。これは左右の党派の振り分けに従って、事実に関する個々の争点で機械的にAの立場をとるかBの立場をとるかというような、ほぼ信仰の領域に属する問題とも違う。それは、個々の細かな争点を越えて、確実に殺された人間の無念や、残された人間の憎しみを具体的にイメージする能力の問題にかかっている。

相手の議論の1%の隙をつきながら行われる「なかった主義」の議論、それは、どこまでも枝わかれする細部に次々と入り込んだり論点をずらしながら、それぞれの場所でいくばくかのポイントを稼ぎ、それによって中心部分までも否定したかのような印象を与えるテクニックの駆使によって展開していく。知的ゲームとしてのそれを読むはめになるとき、無念を背負った死んでいった人々の残したまぎれもない物理的な跡を見たり、いろいろな思いを背負った残された人間との具体的なこれまでの出会いなしには、自分もその「なかったゲーム」の担い手になっていたかもしれないとふと思うことがある。

*1:代表的な記事はネット版12日付けのルモンド紙の "Bruno Gollnisch (FN) émet des doutes sur l'existence des chambres à gaz et relativise l'ampleur de la Shoah"リベラシオン紙の "Dix-sept ans après son leader, le numéro 2 du FN met en doute leur existence. Chambres à gaz: Gollnisch fait son Le Pen"

*2:日本の例で言っても、1923年関東大震災のあとの朝鮮人虐殺は、少ないほうの数百人というほうの見積もりをとっても、規模的にも、また住民が加わったという特異さにおいてもこのリストにはいる資格が十分にある