Netto Shinju

ネット経由の連続自殺で揺れる日本
Une série de suicides "via le Net" met en émoi le Japon

LE MONDE | 16.10.04 | 12h54

しばらく日本の社会面をチェックする時間もなかったのだが、現在ル・モンドのネット版で、読者お勧め記事のトップになっていて気がつく。事実関係そのものについては言うまでもなく日本のニュースが詳しく、ここで紹介するニュースバリューは特にないのだが、現地特派員によって外国向けに書かれた記事の常、背景解説は要を得ている。

2003年に30件、今年すでに20件のネットで知り合った若者同士による自殺−−日本のマスコミが "netto shinju" "double suicide via le Net"と呼ぶところのもの−−があること、日本と同じくネットの普及率の高い韓国でも同じ現象があることを紹介する。フランスでは、昔ドキュメント番組で日本の受験地獄による子供の自殺がセンセーショナルに紹介されて以来、日本では児童生徒の自殺が多いと思っている人が多い。その神話を意識してか、記事では、日本の自殺率は1970-1990年代には先進国の中で平均的だったこと、2000年代になって自殺が増えたが、自殺者の大部分は中高年であると統計的傾向をまずおさえる。

日本の二つの有名な自殺の伝統、切腹と情死(心中)と結び付けて理解するような安易な解釈をあっさりと斥けた後に、記者のフィリップ・ポンスが、結びにつけることばは、理解できないものを無理にでも理解しようとする試みであるかのようだ。

こうした集団自殺は日本の一部の若者の極端な存在の痛み mal-être を間違いなく反映している。それは他に表現のしようがもはやないのだろうか。孤立し、生にこめるべき意味の不在の感覚にとりつかれたそうした若者たちは、ウェッブで出会うが、そこでは集団自殺の仲間を求めるようなサイトがいくつも現われている。彼らには恐らく漠然とした死の欲求しかないかもしれない。しかし自分たちの絶望と孤独を分かちあううちにしだいと、苦しみを分かちあう誰か、ときに複数の仲間といっしょに死ぬということが「当然」という気持ちが大きくなってくる。生まれて初めて彼らは何かを分かち持つという気持ち、話を聞いて理解してもらえるという気持ち、人間関係を結ぶという気持ちを持つ...

集団自殺、ネットというのは社会面記事として人々の好奇心を十分にそそる題材であり、ほうぼうで取り上げられているが、現地特派員の書いたル・モンドの記事がやはりよくまとまっている。よく読まれる記事のトップになっていることから、多くのフランス人の関心をそそっていることがわかる。

ネットの影響というものについて日本国内でも多くの論評があるのだろうが、個人的にはあまりそうした話には乗りたくない気持ちがする。「ウェルテル」自殺、「暗い日曜日」自殺、三原山連続飛び降り、アイドル歌手の後追い自殺など、特定の事象に結びついた自殺の流行があるごとに、新しい文化現象やコミュニケーション媒体の影響云々が指摘され、批判さえされるが、結局のところは表面的なきっかけにすぎず、自殺の規模に新しい時代が開かれるというわけではなく、短期・中期的な流行にとどまるにすぎない。

しかし、この短期・中期的な流行の根底に何があるかというのはまた別問題だ。オウムのサリン事件や癒しブームの日本を知らない私には実は、こうした自殺の背後にある時代の空気として同時代の日本人が感じる「なにか」がほんとうには実感できない。1933年の三原山の連続飛び降り事件の背景にある時代の空気を書かれたもので読んで理解するとおなじように頭で理解することしかできない。25年以上日本に住んでいるル・モンドの特派員氏のほうがよほどその「なにか」を肌で知っているだろう。日本の現代文化について人と話をしようとするときとてつもないハンディキャップを感じ、その資格がないかのようにさえ感じるのはこういうときだ。