J1 やっぱりこれが書かずに...

fenestrae2005-05-28


投票結果予測が判明するまで24時間を切った。投票締め切り時間は20時だが、パリとリヨンは22時まで投票場を開ける。22時の投票締め切りと同時にテレビは開票予想速報を流すだろう。50.01 vs 49.99 のような僅差でない限り、基本的にはその時点で結果がわかる。

すでに書いているが、私は批准賛成派だ。ところで投票権もないのに、なぜ態度をはっきり決め、おおっぴらに表明し、あまつさえ投票権のある人間と議論しているかというと、一つには、ショウ・ザ・フラッグをしないと酒席が面白くない世界に長年生きている習い性からだが、もう一つは、移民という立場である国に住んでいれば、社会や政治の方向として、自分の利益になることとそうでないこと、自分が好ましいと思う世界に結びつくものと結びつかないものの区別にだんだん敏感になってくるからでもある。またその国に住んでいなくても、問題が国際的に大きく外国にいる自分にも影響があるものであれば、無関心ではいられないというどころか、情熱的になることもある。2004年のアメリカ大統領選挙が、アメリカに住む外国人、日本に住む多くの日本人にとってさえそうであった。今度のフランスの国民投票は、私にとって去年のアメリカ大統領選挙以上に切実なものだといえば、心持ちはわかってもらえると思う。

この欧州憲法条約批准問題について、この日記で何を書こうか、実は明確な考えがなかった。今までだいたい、フランスのニュースや社会情勢を、そこに住む一人の移民の視点から、紹介したり、解説じみたものをしたりしてきた。が、この問題に関しては、この日記を2週間ちょっと前に再開したときに、それは無理だろうと分かっていた。というのも、そのときすでに、私自身のこの議論に関する主観的・感情的関与が深くなりすぎていて、今更客観的解説をすることがまどろっこしくなっていたからだ。だが、私のその立場表明−−論調は主に反対派に対する反論になる−−をここで書いても二重に意味がないというのも分かっていた。一つは、そうした立場表明を生の形で書いても、何か情報を求めて読みに来てくれる方にあまり益するところはないということであり、もう一つは、フランス語でなく日本語で書くことの政治的効果の限りない小ささである。ほんとうを言うと、この時期にブロガとして日本語モードになってしまったのは戦線離脱したようで少し悔やまれるが(先ほどたまたま見つけた、日本のサイトでしか見つからない上の絵だけでも、先週くらいからでもどこかフランスのサイトで紹介できればよかった...)、参戦していたときのエネルギーの消費量を考えれば少しほっとしている。

などなどとあれこれ考えていたが、やはり、これが書かずにいられようかという気持ちで、少なくとも自分のために書く。日本語で検索していて、反対派の論理のようなものが、紹介されているのを見たのも、少し動機づけにもなった。以下に書くのは、賛成派の一つの典型的な立場が、一人の外国人という立場で味付けされたものという感じで読んでいただきたい。たぶんそのくらいのものとしてなら文章に残しておく価値もあるだろう。

反対派の広がり、その政治的な意味合いについては、猫屋さんの「ね式」ですでに本質的な分析が示されている。話し相手がいるのは便利なものだ。これでこちらは何パラグラフ文も節約できる。いくつか抜き出して、それにのっかりながら、私なりに論を進めていくことにする。さて、猫屋さん曰く。

結局、アタック系アンチグロバリ草の根運動と仏左派国民の不安感がシンクロナイズして憲法否定論がいっきに広まったのではないか。このコンタミネーションは元社会党支持者のあたりで活性化している。極右派のNON率はだいぶ前から動いていない。

3月にウィとノンが逆転したのはこれにつきる。12月の社会党の党内選挙で、ウィ派が党員の58%を確保したが、この数字は、社会党支持者の中での現在のウィとノンの比率に反映されていない。社会党員の中でも少しは動きがあるのかもしれない。が、いちばん大きいのは、投票行動において社会党支持といいながら、ケースバイケースで社会党より左派に入れる準社会党支持的浮動層(たとえば大統領選挙で決選投票は社会党と決めながら、第一回投票で別の候補に入れる人々)へのノンの浸透が相当に大きかったことになる。

そして、ノンが確固とした層を形成したことやウィがこれをひっくり返せない理由として、

OUI派が論理的であればあるほど、確信的NON派は強硬化する。NON派の論説は市民の“恐怖感”に依存しているからだ。基盤を恐怖におく説法と論理はあくまでかみ合わない。

「恐怖感」にアピールするやりかたはこれまで通常極右のお家芸で、左派は「不満感」に訴えてきた。今回はこの「恐怖感」が左派のノン派の中で増幅されている。そしてその恐怖感に訴える「魅惑」がマスコミをも包んでいる。2002年の大統領選挙で、「治安低下」という観念を右派、保守派がうまく利用したことで、その時点でみれば35時間労働の実施にともなうぎくしゃく以外に首相としてはさしたる政策の失点のなかった−−失業率を下げ、住民皆保険の導入に成功した−−ジョスパンがル・ペンより下におかれた。あのときの「治安低下」と同じような役割を、「自由主義経済の行き過ぎ」「工場移転」「社会的ダンピングが」が果たしている。もちろんこうした問題は厳然とある。しかし、欧州憲法をこれらの問題に結び付けるキャンペーンの中で、労働問題にかかわる一つ一つのニュースが特別な輝きを帯びる。これは結局すべてのメディア受容を覆ってしまった。ル・モンドで社説欄や論壇欄において欧州憲法賛成が論理的に説かれるその一方で、同じル・モンドの一面を、新たな工場移転や先鋭化する労働争議、安価な外国労働力の脱法的使用の例が賑わせる。このブログでも昨日、ワイン農家の反乱の派手な行動を、単に写真だけで面白がって選んだが、そうした事件の一つ一つの−−それ自体としては現実の反映でありまともな−−報道が、不安から否定論へという確立された回路に組み込まれ、賛成論の論理的説明を無化する。そしてその結果はというと、

憲法肯定派がリアリズムに徹すれば徹するほど、反グロ派は理想主義に走る。

反グローバリズム派の理想主義−−たとえばブザンスノは、この憲法を拒否すべき理由の一つとして、全欧的な最低賃金が定められていないことをあげ、「ポーランド最低賃金をフランス並みにするには企業の巨大な利益を吐き出させるだけで可能」と主張する−−はしばしば信念であるのか、あるいはために持ち出される戦略的なレトリックなのか区別のつかないこともある。そして「理想」の名のもとになされる「不十分な進歩」の拒否は、全欧的にみるならばまぎれもない進歩であるはずの、第2部の「基本権憲章」の部分にさえ及ぶ(たとえば「「男女平等」はあるが「フェミニズム」のない憲法」云々)。そして皮肉なことに、その拒否は、本来ならば憲法成立によって得られるはずのフランスの議決権の拡大をも無にし、「ブリュッセル自由主義的政策の続行」を自らの手でチェックする力をさえも弱めてしまう。

それはやはり、2002年の大統領選挙のときに起きたことに似ている。左翼支持者の多くが「自由主義的経済に妥協する現左派政権」に制裁を加えようとして、右派政権を成立させ、さらに厳しい自由主義的経済政策の圧力にさらされることになった。そして今度はその圧力のもとに、またもや、妥協による少しばかりの進歩の道を拒もうとする。ベストの名においてベターを拒否しワーストの袋小路に自ら追い込んでいくこの行動は、現在の閉塞感のもたらす集団的な不合理な衝動なのか、それとも、そのことによって自らのプレザンスが高まることを本能的に知っているる政治的アジテーターの力によるものなのか。少なくとも、袋小路の向こうに一発逆転の明るい光が見えれば、その衝動も理解はできるが、レトリック以外に、一発逆転への第一歩さえも、明るい光の照らすところさえも見えない。モランはそれを「空虚」*1と呼んだ。ルモンドの編集長を去年までやっていたプレネルはそこに「フランス左翼の野郎自大」(←超おおざっぱなまとめ)しかないと見た*2

そして猫屋さんは、「反グローバリズム派が理想主義に走る」その結果として、

走ってナショナリズムというトラップ/罠、にはまる。

と指摘する。多くの真摯な反グローバリズム派の運動家においてそれはそうだと思う。しかし、私は、左翼のノンが理想主義のことばを用いるあらゆる場面で、実のところ理想主義がナショナリズムに走ったのか、ナショナリズムが理想主義のレトリックで偽装されているのかわからなくなることがある。

ひと月ほど前、 トロツキスト系のノン派の集会の報道で、参加者たちが東欧への工場移転、「ポーランド鉛管工」のダンピングの可能性をさんざん糾弾した場面に続き、閉幕のおきまりの「インターナショナル」の斉唱の部分が流れるのを見て、なんともいえない気持ちになった。私はそこにポーランド人としていなくてよかった思った。もちろん、反グローバリゼーション派がよく言うように、「北」の経済を空洞化させる南への投資がかならずしも「南」の人々の富につながるとは限らず、新たな搾取を生み出す条件にしかなり得ないことがある。しかしそれは必ずというわけではない。少なくとも何も資本やサービスが動かない限り東欧の経済水準は今のままで、だから東欧の大多数の人々がEUに市場を通した富の再分配の機会を見、憲法の承認もそのステップの一つと見る。

もし真摯な反グローバリゼーションの運動が南北問題で試みているように、フランスの左翼の欧州憲法ノン派が、自らの信じるところに従って東欧の同志たちのウィの「幻想」を改めさせ、東欧の労働組合と組織的に連帯して、よりルールある経済に向けての共同のノンの運動を作り上げることができていれば、その「インターナショナル」もより美しく響いたろうが、そのノンが一方的な孤立したノンである限り、極右の利己主義まる出しの排外主義的よりも、そのノンのインターナショナリズムのレトリックは始末の悪い冗談が偽善にしか聞こえない。そして最悪なのは、その左翼のノンで欧州憲法が棚上げになっても、フランスから東欧へ工場が移転していくことへの何の抑止力にもならないどころか、共通のルールとして憲法がもたらす少しばかりの進歩を、他の国々の人々からも奪ってしまうことだ。

(実のところは、左翼のノン派の偽善に対する私の不信の最も大きい部分は、もっと身近で単純なところ、つまり、ノンを主張するにあたって真実を語っているかという点にはじまった。私の個人的な検証では、残念ながら左翼のノンは、極右のノンほどではないにせよ、最初にノンありきがゆえの事実にもとる主張が多い。この憲法の欠陥を隠そうとしていると彼らが批判する右派のウィにくらべても、格段に、誤った宣伝が多い。「欧州憲法を人民のものに」という共産党その他の主張を信用できないのは、まさに誤った宣伝によって「人民」からテキストを奪おうとするその知的な不誠実さゆえである。これについてはたぶんあとで取り上げることになるが、「効を奏したプロパガンダの検証」のようなむなしい作業にならないことを祈るばかりだ。)

斎藤昭彦氏の殺害確認のニュース

フランス語で出ている今いちばん詳しいニュースは

イラク当局、人質の斎藤昭彦氏の殺害を確認
Les autorités irakiennes confirment l'exécution de l'otage japonais Akihiko Saito

AP | 28.05.05 | 13:03

イラク政府当局が「独自の情報源で死亡を確認」と発表という記事タイトルの情報に加え、犯人グループの「アンサール・スンナ軍」の発表したビデオに写る映像を弟の斎藤博信氏が確認したという情報を伝える。日本の外務省の高官が「ビデオに写るのが斎藤昭彦氏というのは『極めて蓋然性が高い』が、別の手段ではは確認されていない」という旨のコメントをしていると伝える(ルモンドの掲載するAFP電では「極めて蓋然性が高い」はイラク日本大使館のコメントと)。記事中で、イラク当局は「解放に向けて努力をしたが、合意に達する以前にすでに、殺害は行われていた」ともコメント。事実としたら残念なことだ。