「この人なら知っています。沖縄の人だ」

関東大震災の時の朝鮮人虐殺事件に対する解釈が、映画『ホテル・ルワンダ』との関係で、論争になっているのを id:gachapinfan さん、id:travieso さんのところで知る。この映画も見ていなければ、論争のきっかけになった映画評論や複数いる論争参加者の記事もきちんと読んでいず、なんだかややこしいことになっている論争に参加する気はないが、このきっかけをとらえて、この事件に関して以前から気になっていた証言を、ある本から引用紹介することにしたい。コメントも論争の展開を追わずにひとりよがりに適当につけます。さて問題の本は、

著者の比嘉春潮は1883年沖縄生まれ。没落士族出身の知識階層に属し、小学校校長、新聞記者、県庁の役人を勤めながら、一方で社会主義運動に接近。1923年、40歳のときに役人をやめ上京し改造社の社員となる。編集者として生計を立てながら政治・社会運動、民俗学・沖縄研究に携わる。1947年沖縄文化協会の設立に加わり、晩年は沖縄学の研究に専念。1977年没。

比嘉春潮は上京して改造社に勤めだして半年もしない1923年9月1日に、芝にあった改造社の編集部で被災する。淀橋の倒壊しかけた自宅近くの広場で、その日から数日間友人たちと野宿する。文中に何度か出てくる饒平名君というのは、やはり沖縄出身で比嘉より前から改造社に勤めていた饒平名(永丘)智太郎(1891-1960)。彼は前年の第一次共産党結成に加わり党の中央委員であった(もちろん地下活動)。以下の引用(pp.108-115)では、新たに適当に段落分けを加えてある。

地震後の不安に加えて、朝鮮人が大挙して襲撃するという不穏なうわさが飛び、人びとの恐怖をかりたてていた。在郷軍人を中心に自警団が組識され、日本刀を差したのやら、竹槍をかついだ物騒なのがそこらを徘徊した。淀橋の原っぱでも自警団が出ていたが、ボーと鳴っている石油コンロが注目をひくらしく、しきりにわれわれのまわりをウロウロする。饒平名君が腹を立てたと見え、近づいた自警団のひとりをつかまえると、下から顔を覗き込んで、
「こいつ朝鮮人じゃないか」
と冷やかした。朝鮮人はいないかと探し歩いているのをつかまえて逆手をとったので、相手はいっそう硬化してしまった。

幾日かたって、もう家で寝るようになったある夜半、私たちは自警団の突然の訪問に寝入りばなを叩き起こされた。出ろというから、私がまず玄関に出た。饒平名君も起き出してきて、黙って後ろにすわった。
朝鮮人だろう」
「ちがう」
「ことばが少しちがうぞ」
「それはあたりまえだ。僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とはちがうはずじゃないか」

押し問答をしているうちに、隣りに間借りしていた上与那原という学生が出てきた。海軍軍医大佐で有名な人の弟で、沖縄にいたころアナーキスト・グループの中にいた人だ。彼も私の肩を持って、自分の知り合いの沖縄人だと弁明し、
「なにをいってんだ。日清日露のたたかいに沖縄人を朝鮮人といっしょにするとはなにごとだ」
と、いかにも彼らしくまくし立てたが、そのことばも聞かばこそ。かえって、
「こいつも怪しいぞ」
とおどかされてすごすごひき下がっていった。

私はこれは危ないと思った。なにしろ相手は気が立っているからなにをされるかわかったものではない。そこで、
「そうか、それでは警察へ連れて行け。そこで白黒を決めようじゃないか」
と持ちかけた。自警団の連中の間から、そうだそうだという声があがった。
それまで黙って聴いていた饒平名君、平良君、和木夫妻、私と、女一人をまじえた五人はゆかたがけのまま、ぞろぞろと表へ出た。和木君というのは、あとで「三田文学」の編集者になった慶応出の人で、夫妻ともだれが見たってチャキチャキの江戸っ子であった。

私としては、淀橋署に奄美大島出身の巡査がいるのを知っていたから、ここで事が面倒になるより、署へ行ったほうが安全と思ったのだ。ところが、五人がひっぱっていかれたのは淀橋署ではなく、近くの交番だった。

交番でも、同じ問答の繰り返しであった。ごたごたしているうちに、酒屋の親父とでもいったような腹のでっかい男が、
「ええ、面倒くさい。やっちまえ」
と怒鳴った。腰には不気味な日本刀をさしている。一瞬みなシーンとなった。ヒヤリとした時、早稲田の学帽をかぶった青年が、
「この人なら知っています。沖縄の人だ」
と叫んだ。私には見おぼえのない顔だった。彼はすぐ父親らしい男に、
「黙ってろ」
とどやしつけられた。

それでも、なんとかまあ淀橋署に行くことになった。雨上がりの日で、泥んこ道だった。私ひとりだけ足駄をはいていて、ひときわ背が高かった。ぞろぞろ歩いているうちに、まわりをとり囲んでいた自警団のひとりが、
「おい、沖縄人なら空手を知っているぞ」
と叫んだかと思うと、二人の男がやっとばかりに後ろから私の両脇を抱えた。和木君の細君は、
「ひどいわ、ひどいわ」
と抗議したが、私たちはそのままの姿で引き立てられて淀橋署に入った。

署へくればもう問題はない。丁重に扱われて、自警団にも帰っていいといった。知り合いの巡査というのは思想問題を扱う高等警察の人で、大杉栄の家でちょくちょく顔をあわせていたのである。彼はいろいろねぎらってくれたけれども、私たちとしてはそのまま帰るわけにはいかない。

大体、近所の連中もわれわれが朝鮮人ではないことを知っていたはずだ。社会主義者というので危険視されたにちがいないので、安心できない。私たちは淀橋署員に頼んで、隣近所に、私たちが危害を加えるようなものではないことをふれまわってもらった。

こういう出来事からもわかるように、実に物騒な状態だった。次から次へとデマが飛んだ。多摩川の方から二百人の朝鮮人が攻めこんでくるとか、どこそこでは交戦状態であるとか、あるいは毒薬を井戸に投げ込む、石油をかけて家を焼くから気をつけろとかいって、人々は疑心暗鬼に陥っていた。ある時は、私たちの近くの映画館で集会のあった時、だれかこの中に朝鮮人がいると騒ぎだし、会合は止められる。聴衆は一人びとり調べられる。夜おそくまで、便所の中や天井うらまでいたるところ捜しまわるという有様だった。またある時は軍人を数人乗せたトラックが通り過ぎたら、あれは擬装した朝鮮人だということになり、そこら中の自警団が追っかけていって調べた。

町の在郷軍人などといった手合いだけではなく、相当な知識層の人も同じような不安にとらわれていた。改造社では、地震直後の九月三日に目黒にあった山本社長の家で、今後の雑誌発行について会議をひらいた。その時、このいわゆる〝不逞鮮人〝の騒ぎが大きな話題になり、山本社長はもちろん、秋田忠義というドイツ帰りの評論家で相当教養もあり、視野の広かった人さえも鮮人襲撃を信じこんでいた。そして、会議の最中に、神奈川との境の橋を、朝鮮人が二百人ほど隊をなしてくるという噂が入り、会も解散ということになった。私たちが、線路伝いに一時間がかりで新宿までたどりつくと、こんどはそこで、い立ち去ったばかりの目黒では市街戦の最中だ、池袋でも暴動がおこっているなどと聞かされた。そんなばかなことを最初から信じることのできないのは、社では饒平名君と私だけだった。というのは、われわれは、かねて朝鮮の人たちとのつきあいもあり、彼らがそんな無謀なことをするとは信じられず、また武器がそう簡単に手にはいるものでもないと考えられたからであった。世間も騒ぎ、新聞も書きたてていたが、あの当時左翼の人々は、おそらく私たちと同じ見方をしていたと思っている。

比嘉春潮はまた、甥の比嘉春汀が震災以来行方になっているのに気づき心配する。あちらこちらの警察署を探し回り9月6日に、飯田橋の警察署に留置されているのを発見する。

彼は学校で地震に会い、飯田橋近くの友人のところへかけつけると、食べものがないという。急いで自分の家まで帰り、パンを買ってもどったら、もう友だちはもとのところにいない。パンを抱えてうろうろしているうちに夕刻になり、血迷った自警団にやられたのだ。最初、向こうからドヤドヤとやってきて「朝鮮人だ」と叫んでいるので、とっさにものかげにかくれ、いったんはやり過ごした。ところが一番後にいた一人が、ひょいとふり返り「ここにいた」というが早いか、こん棒でなぐりかかった。「ぼくは朝鮮人じゃない」と叫んだ時にはもう血だらけになっていたという。すぐに、相手にもまちがいだとわかったので大事にいたらなかったが、こんどは警察につかまってしまい、家もさほど遠くないのに帰してもらえない。

甥の春汀が留置されているのは左翼の活動家としてである。春潮は警察に釈放を要求するが、今外に出したらもっと危ないという警察の言い分になっとくして、その場はそのまま引き下がる。

私たちは、「フタリブジ」という電報を打つことができたが、不幸な目に会った人も多かったと思う。現に、知り合いの長浜という首里の青年は、深川の自動車工場に勤めていて、確かに地震翌日の二日にその姿を見た人がいるのに、ついに行方不明となった。殺されたとしか考えられない。戦前沖縄三中の校長になった豊川善樺君も、隅田川の橋の上で、自警団に朝鮮人でなければ「君が代」を歌ってみろと歌わされた、など、ほかにも危ない目に会った話はいろいろ聞いた。また、連日行方不明者の名が新聞に出た中に〝鮮人安里亀〝とあり、アンリキとルビをふってあるのを見かけた。私には、これは新聞記者が推測して書いたもので〝アサトカメ〝という沖縄人ではなかったかと思えてならぬ。
〝不逞鮮人〝騒ぎでは、日本人もずい分やられたらしいが、とくに沖縄人の場合、地方によっては強いなまりがあるから、逆上した自警団には見わけがつかず、犠牲になった者もあったはずである。


一読すればわかるように、直接の主要な標的になった朝鮮人ではないが、社会主義者としては標的にされる可能性があり、かつ、建前的には「皇国の民」ではあるがかといって100%同化した存在ともみなされていない当時の沖縄人という著者の特殊なそして微妙でもあるポジションがその証言を特徴づけている*1。この文は後年の回想記として書かれたもので同時代証言ではない。が、被害者に近い立場で事件に巻き込まれる一方で、直接の犠牲者に自らをアイディンティファイして事件の告発を行うものでもないという−−読みかたによってはかなり無関心とさえもみえる*2−−立場をとっているというその二面性が、研究者として晩年を過ごした著者が過去に距離をおきながら行う回想のスタイルともあいまって、記述にリアリティを与えながら、政治的回収につながる恣意性をかなりの部分避けさせているように私には思える。

この事件については立場によっていろいろ見方があると思うが、特殊ではあるが、その特殊さゆえに得難い一つの証言から、それぞれの立場なりに、いろいろな、そして無益ではない解釈が得られるのはないかと思い、かなり長い抜粋を試みた次第である。

私が関心を持つのは虐殺に参加した人たちの像である。状況の特殊性を割り引いても、どのような社会的、文化的風土が、それを作っていたのか。そしてどのぐらいの割合の人がこうした虐殺に加わったのか。被害者数をめぐる議論はたえないが、加害者数についてのデータはそれよりいっそう分からない。震災後の混乱の中とはいえ、そのあと法的にどのような議論があったのか。そんな議論は別に今さらしなくていいというほど国家としての日本の当時の文明度を今のわれわれが過小評価する必要はあるまい。大杉栄殺害の犯人とされる甘粕正彦らの裁判については知られているが、一般人で自警団に関わった人がどうなったかについては不勉強ながら分からない。ネットで見てもよく分からない。

また−−こちらが返事を書きかけになっている最近の id:swan_slab さんとのやりとりと少し関係するが−−ガチガチの官僚システムをもった国家主義的な体制として捉えられがちな戦前の日本がむしろ、特異な状況下とはいえこうした中間団体の超法規的な暴力活動を可能にし許すような国家権力のルーズな−−昔ふうの言い方では暴力装置を独占していない−−体制を持っていたというふうにも解釈できる。そしてこうした人々の活動を突き動かすものは100%、パニック下の防衛反応に帰すことができるかどうかというのも問うてみることができる。「おい、沖縄人なら空手を知っているぞ」ということで後ろから拘束するというのは、行動の原則において、途中から、目的(あることがらの検証とそれに基づく「制裁」)と手段(暴力の行使)の倒錯が起こっている。

この事件が国ぐるみの犯罪であることを証明しようとする努力は日本では主に左派陣営に属するようだ。これはこれで解明すべき点は多いと思う一方で、自警団のような組識で「活躍する」主体(社会的存在)や、あるいはそれを作るメカニズムが不問になっていけば、当時の日本のありかたについての批判的検討の大事なポイントが抜けてしまうのではないかと思う。こうした事件で殺人を犯した人々の行為をきちんと清算できないという当時の日本の社会のありかたが、その後、少なくとも1945年までの日本の進む道に必然的な関わりを持っていると考えてもよいのではなかろうか。国家のレベルではなく社会のレベルに批判の目を向けてもいいと思う。(旧)左翼が天皇制批判に固執することについて、それが自らの権威主義的体質を批判的に検討することを回避する道具にもなりがちだという指摘とも恐らく関係してくる。

自警団に捉えられた朝鮮人がだれかの機転で救われるというのは−−そのために行動する人がいたとして−−その可能性はかぎりなく低かっただろうと、上の証言を読めば、容易に想像できる。一方、比嘉たちは沖縄の人だったから、朝鮮人ではないという証明の「恩恵」に浴することができた。しかしその恩恵を受けるのでさえ、「黙ってろ」という人間の傍らに少しばかりの義侠心で「この人なら知っています。沖縄の人だ」ととっさに発言する人間が必要だったことになる。

*1:この記述について、難を逃れるために沖縄人として朝鮮人と自らを強く峻別しようとしていることについて批判的な意見をきいたことがあるが、こんな状況で著者には選択肢はない。ナチのユダヤ人狩りから逃れようとするユダヤ人がとる当たり前の行動は、自分がユダヤ人であることを隠し、ばれそうになっても自分はユダヤ人でないと言い張ることだ。

*2:この点については今はあえて立ち入らない