思えば遠くへきたものだ

1997年の夏から、そして2002年の5月から、思えば遠くへ来たものだと思う。フランスは。

2002年の選挙のあと、サルコジが内相となり、一連の移民関係の政策が締め付け的な性格を強め、2003年末には法律が変わった。この一連の動きは、1997年にドブレ内相がパスクワ法をさらに強化し、個々の政策でも移民締め出しをいっそう強めようとしたときのものを上回るものだったが、これに対し特に大きな反対運動は起きなかった。1997年の春から夏に、移民、それも不法滞在移民に人々が連帯して大規模な運動を起こし、阻止しようとした状況が、人々の全般的な無関心の中あっけなく生じていた。

2005年になると、しばらく前までは国民戦線のル・ペンくらいしかしていなかったような発言−−たとえば犯罪を犯した帰化国民からの国籍の剥奪の可能性−−が、内務大臣の口から公に出、それに対して世論が憤激することもないような状況になった。もっとも左派の中の左派の活動家でさえ、「自由主義的な」憲法条約をいかようにしてでも葬りさるために、ポーランド鉛管工の脅威をイメージ戦略に利用していたくらいだ。中国の繊維製品をめぐる黄禍論的な発想は左右を問わずほとんどの政治家から、組合の活動家にいたるまでコンセンサスを得ている。

バンリュウの騒動のあと、その根元にある大きな原因を作った自分たちの責任を回避するため内務大臣が移民問題に議論の焦点を移し、首相も否応なしにその後を追いかけ、あるいは対抗上主導権を握ろうとしている。投票者の80%の信託を受けて選ばれたのは外国人排斥の極右の阻止という緊急的要請の中でであったはずの大統領は、政府の中に忍び寄る極右政党的な発想とのなれあいと一線を画すというその責任を果たすための明確な行動力を示すこともなければ、全般的な指導力ももはやないとすら見られている。移民は、フランスを覆う経済的・社会的不安のそして選挙戦の割りを食らう。選択的移民政策ということで、鞭の代わりに飴も用意されようとしている。今なら個人的には飴の部分が享受できるカテゴリーにいないこともないが、全体的な雰囲気が締め付けに向かう中ではこの飴の部分がおいしかったことがないのを経験している私は信じない。私はどうにかサヴァイヴァルしていても、隣りのアンナやモハメド、上の屋根裏部屋のリュウがいなくなったフランスに魅力はない。そして私はなにより、飴をもらえるはずもなかった昔の私を思う。

1997年2月、不法移民を自分の家に泊めたために逮捕された一人の女性が有罪判決を受けたことに映画人たちが真っ先に抗議の声をあげ、全国的な運動の先駆けとなった。その前年夏には教会にたてこもった不法移民たちを人々が体をはって守ろうとした。こうした空気の中で、デリダは『ホスピタリティについて』を書き、現実に可能なことを探るにせよまずは無条件のホスピタリティに立脚にすべきだと主張した。1997年の選挙で誕生した社会党を中心とする左派連合政府がほんの少しだけ全体的な締め付けをゆるめてくれたおかげで、すんでのことでフランスを去るはめになるのを免れた私は、あのとき「燃えてくれた」多くの人々に感謝している。私も彼らといっしょにデモを歩いた。テレビでしか見なかったタレントや作家をその場で見た。その、文化人・知識人たちは今何をしているのだろうか。デリダの『ホスピタリティについて』をばかにせずに読む人が今いるのだろうか。これから2万5000人を運ぶチャーター便は誰の関心も集めないまませっせと飛ぶことになるのだろうか。

誤解を避けるために言うと、フランス人一般が移民に対して皆急に閉鎖的になったわけではない。騒動の直中にひっそりと報道された記事*1は、騒動の起きる数週間前という状況で行われた調査で、ヨーロッパ各国の中でフランス人がまだ最も移民の受け入れに対して開放的という結果がでているとしている。しかし外国人嫌いの一定の層に取り入り、そればかりかそれを拡大しながら自らの支持を増やそうとする戦略をとる政治家の言動、それにセンセーショナリズムで追随するマスコミの前では、強い哲学的・政治的意志でもないかぎり、先行き不透明な経済的環境の生み出す不安定感で、安易な原因・罪人を求める方向にじわじわと人々の心は導かれる。

これから1997年の映画人に代る人々は出てくるのだろうか、それとも、1997年が四半世紀も前に見えるほどに2002年来続いてきた横滑りが何の抵抗もなく2007年に向けてさらに加速されていくのだろうか。私もやはり別の意味で「昔はよかった」式の言説の罠に陥っているのだろうか。しかしそんなフランスで、自分も知らず知らずのうちに横滑りの仲間にはいっていくはめになるのだけは、ごめんこうむりたい。