フランス、北アフリカの二つの記憶

フランスの昨日8月15日の第二次大戦関係の大きなニュースは、日本の敗戦ではなく、1944年の連合軍とドゴール側の北アフリカフランス軍プロヴァンス上陸作戦。60周年の行事がトゥーロン他のプロヴァンスの都市、空母シャルル・ドゴールの上で行われた。上陸に参加した45万人のうちち23万人がフランス軍で、そのうち10万人以上が、旧仏植民地の北アフリカ、西アフリカの兵士である。式典にはアフリカの15か国の元首が参加。また300人のアフリカ人の元兵士が呼ばれ、勲章を受けた。長い間忘れらられていた人々へのオマージュがやっとなされたと新聞は解説する。

プロヴァンス上陸作戦−−フランスはアフリカの記憶を取り戻す Débarquement de Provence : la France retrouve sa mémoire de l'Afrique
LE MONDE | 14.08.04 | 13h31 • MIS A JOUR LE 15.08.04 | 10h48
政府はプロヴァンス上陸作戦の元兵士たちを称揚 Le gouvernement rend hommage aux anciens combattants du débarquement de Provence
LEMONDE.FR | 15.08.04 | 13h15 • MIS A JOUR LE 15.08.04 | 22h57

ル・モンドはさらに、この遅すぎたオマージュを批判し、志願でなくほとんど強制的に集められた人たちの存在、上陸作戦が終了するにつれ軍の中での差別待遇が表面化してきたこと、未解決の恩給の問題があることなどを紹介する記者の解説記事をつける。

解説 消失した記憶 解放作戦のアフリカ人たち
ANALYSE Le souvenir naufragé des Africains de la Libération

LE MONDE | 14.08.04 • MIS A JOUR LE 16.08.04 | 12h06


60年前の記憶を掘り出したこの式典は、40年少し前のさらになまなましい記憶に結びつく別のエピソードを生んだ。

式典には当然ながらアルジェリアのブテフリカ大統領も呼ばれている。しかしブテフリカ大統領の式典出席に反対する人々が少なからずおり、与党の議員の60人は政府に反対の意見書を提出しちょっとした騒動を起こした。ブテフリカ大統領が、アルジェリア戦争の際にフランス側にたって戦ったアルジェリア人、アルキ harki と呼ばれる人々に対し祖国を裏切ったものとして厳しい態度で望み、ヴィシー政権下の対独協力者にもなぞらえたことに抗議してである。ブテフリカ大統領の態度の背後には、独立戦争で植民者側についた人々を嫌うアルジェリアの国民世論がある。一方フランスにはアルジェリアにいられなくなりフランスに落ち着いたアルキ−−脱出できなかった多く者はアルジェリアで殺された*1−−とその子孫*2たちがおり、議員たちの意志表明はその声を反映している。議員たちのコミュニケはアルジェリアの大統領のことばをアルキの追憶に対する侮辱だと激しく非難する。60周年式典をフランスとアルジェリアの協力関係を強める機会として利用したい政府指導者はこの抗議を不適切として斥け、防衛大臣外務大臣などが談話を発表していた。

8月15日のトゥーロンの式典へのブテフリカ大統領の出席は当然と、バルニエ外務大臣。
M. Barnier juge "légitime" la venue de M. Bouteflika le 15 août à Toulon

LE MONDE | 12.08.04

ブテフリカ大統領は式典後もフランスに留まり、今日月曜日にはシラク大統領と昼食を共にした。両国の経済、軍事協力などが会見の議題にあがったようである。

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アルキという人々の存在は、フランスに来て間もなくある人から聞いて知った。南仏の町から来た女性が、自分の父親がアルキであると語り、それらの人々が両国の歴史の中で不当な扱いを受けていることを鏤々解説してくれた。イザベル・アジャーニ似の美人の彼女は、いい学歴をもち、職場としてだれもがうらやむような公的機関に勤めていた。ことばには南の訛りも、マグレブ系の訛りも微塵もない。

彼女は私がフランスに馴染むのにあれこれ世話を焼き、いろいろなことを教えてくれた。クスクスのレシピもその一つだ。その彼女があるとき突然思い立ったように、私のフランス語の発音を直してくれた。母音を明確にシラブルをきちんと区切って、しかし重くならないように話せ、kやrの音に喉の奥を使うのは奇麗じゃないから気をつけろと。彼女は何も理由を言わなかった。しかししばらくして自分で気がついた。それと逆のものが、アラブ系の移民の子どもたちの訛り、両親が小さなレストランをやっているという南仏の町で、彼女自身が生まれ育った環境のフランス語の響きだ。彼女がその環境を意識的に脱しようと決意しなければ、彼女は友人たちと同じようにそうした訛りでしゃべりながら今ごろ実家のレストランの手伝いをしているということは十分にあり得る。イスラム教に少しづつ興味が出てきたと言いながら、聞くだけですぐイスラム系と分かるファーストネームを彼女は疎んじている風だった。

彼女のおかげでそのとき私の発音は少し上品なものになった。そして自分の発音が他人に与える社会階層イメージについて敏感になり、少し知恵がついてからはブルデューの書いたものを理解した。年がたつにつれ、相手と機会によって上品さの度合いを意識的に使い分けることさえもが、いつのまに身についた。そしていろいろな得をした。彼女がアルジェリア移民の娘としてフランスに同化し、社会階層をよじ登るために大きな努力をして手にいれたものを、私はあのとき30分で分けてもらったことになる。そのことを思い出すとなぜか無性にせつなくなる。

*1:犠牲者の推定は数千から15万人。

*2:2万家族がフランスに逃れたと言われる。