共同体への引きこもり、(またまた)スカーフ

すでに5日の日記でtemjinusさんがポイントを紹介しているが、7月6日付けル・モンドは、ゲットー化していく都市郊外区域での共同体への閉鎖的回帰現象を具体的に報告した内務省の調査を一面トップで大きく伝え、社会面、社説もこの問題に割いている。日本でコミュニティといったときのほのぼのとした響きと違って、フランスでこういう文脈で使われる「共同体の(communautaire)」という言葉は、「共和国(res-publica ミンナのコトガラ)の 」という語と対置され、後者の基盤を危うくする閉じた民族共同体、宗教的共同体を問題にしている。具体的には特にイスラム教、特にイスラム原理主義への回帰、それもユダヤ教徒との対立におけるその過激化が目下の重要問題である。社会問題・経済問題がそれに覆いかぶさっている。


7月5日のテレビのニュース、複数のネットニュースでは、イスラム・ヴェールに対する複数のイスラム信者団体の組織決定について報道している。公立学校でのスカーフの禁止にあたる例の公立学校での非宗教に関する法律がヴァカンス明けの新学期から適用される。それぞれの組織がヴァカンス前に決定をその傘下にある信徒に統一見解を伝える必要に迫られてため相次いでの発表となった。最も急進的な団体であるUOIFが挑発的に「着用したい人は着用して登校しろ」ととれる趣旨の発表をしたのは3日の日記でtemjinusさんが紹介している。他の三団体は、紛争を避けるために法を遵守するよう呼びかけながら、着用を譲らずに問題が起きた生徒やその父兄に対しては学校との仲介、司法的援護をするとの二面的なメッセージを出している。後者、穏健派の団体の中にも強行派もいていろいろともめ、組織の地方下部レベルでは混乱もあるらしい。


当然ながら上の二つの問題は関係している(下の書き込みに続く)。

ヴェールの制限を求める側の論理


昨日のイスラム・ヴェールについての書き込みをしたあと、日本語での検索で、日本での報道、個人ホーム・ページ、ブロッグ類での受け止められかたをざっと見た。以前にも感じたが、差別とたたかいながら学校でのヴェール規制を求める側の論理や、そうした決断に人を向かわせた現実というのがほとんど紹介されていないのがあらためて気になる。*1


フランスでは世論や知識人の態度が文字どおり二分した(している)。確かに、この問題は1989年にはじめて全国的な論争になって以来、15年間も人々の態度を二分してきた。賛成、反対にもいろいろな立場がある。着用を制限する側の考え方の枠組みに、イスラム教徒に対する差別意識とか、革命以来の伝統の非宗教、共同体主義を否定した国民国家の理念といったイデオロギーを指摘するのは誤りではない。しかしそれらを指摘して、問題をフランスの特殊性に矮小化して事足れりとする論が多すぎる。残念ながらそういう論に現在進行中の社会的現実を視野に入れない粗雑なものが多い。


去年の夏、スカーフ制限の法制化の是非を大きなテーマとして大統領の諮問委員会(スタジ委員会)が構成され、9月から12月まで17回の公聴会を開き年末には報告書をまとめた。その機会にフランス人の大部分が公教育の場で何が起こっているかその現実を発見した。教室にスカーフがイデオロギー戦の道具して持ち込まれていること、スカーフをしたくない者に対する共同体内での実際の圧力が想像以上に広がっていること、学区によってはそれらのもたらす緊張が教育現場で日常的に耐えられないものになっていること等々。


現実をすべて呑み込んだ上で、公教育(=公権力)によるいかなる規制にも反対という明快な原理を崩さない人々もいる。それはそれで潔くさっそうとしている*2。一方で、ある割合の人々が、現実がすでに何かをしなければいけないところまで来ているということを認識し、意見を変えた。現状認識と共に、男女平等、宗教的権威に対する世俗の法の優位というフランス人が長い道のりの後に(少なくとも理論上は)ほぼ獲得したと信じていたものが必ずしも自明な既得権ではない世界が公教育に持ち込まれつつあるという危機感を持った。ある調査ではすでに現場の教師の60パーセントが法制化に賛成*3していたが、その認識に多くの人が加わった。


教育現場だけでなく、スカーフを押し付ける共同体内部に出自を持つ女性たちが証言をはじめ、何らかの形での規制に賛成する側の論陣に加わったのも一定の世論に影響があった。共同体内部でスカーフが性的抑圧の道具として使われていること、着用する権利をメディアの前で主張する女子学生のわきで、注目を集めないまま、多くの娘たちがしばしば物理的な暴力を伴う圧力に晒されていること、それが年々しかも若い世代の間でひどくなることを彼女たちが告発した。彼女たちの共同体が差別の犠牲者であるとしたら、彼女たちはさらにその中で性による差別を受けている二重の差別の犠牲者であり、スカーフはその二重の差別のシンボルである。そしてそのシンボルが自分の妹や娘たちを抑圧する道具として使われることを拒否するために彼女たちが選択したのは、非宗教、男女平等、共和国の原理という古臭い歌である。イスラム神学の伝統の中で議論の訓練に揉まれる一方で現代のヨーロッパの学問を身につけた新世代のイスラム学者たちが、人権、自由、他者の尊厳という概念を交えながら巧みに学校でのスカーフ着用の自由を訴えるその洗練された弁に比べると、彼女たちの主張はあまりにストレートでナイーブにさえ見える。しかしそれを聞いて、古い単純な歌を繰り返すことも時には必要だと多くの人間が気づいたのではないか。


そうした立場の女性によって書かれた次の2冊の本はこの問題を考える上で個人的に大いに参考になった。Michèle Vianès, Un voile sur la Republique (Stock, 2004 、「共和国を覆うヴェール」)*4イスラム・ヴェールの歴史、宗教的論点に関する情報を含むこの問題に関する総合的な案内にもなっている(もちろん規制賛成側からの)。Fadela Amara, Ni Putes Ni Soumises (la découverte, 2003 「娼婦でも付属品でもなく(口調の問題からとりあえずこう訳す)」)*5は、90年代に始るイスラム系移民地区での共同体主義的的退行と、それに伴う女性の抑圧の問題全般について、その地区に生まれ、その地区で社会活動をしている自らの体験から、書いており、もちろんヴェールの役割についても言及されている*6


スカーフ問題の日本での紹介のされかたに話を戻せば、哲学者や「現代思想」の知識人の言うことだけでなく、こうした現場の人間が書いたものももう少し紹介されてもよい。こういう本は晦渋な概念、長い構文にまどわされることなく、新聞が読めるくらいのフランス語力で読めるからいい。Ni Putes Ni Soumises は運動としても全国的な話題となり、運動体として堅固な組織となった*7が、そのちゃんとした紹介はまだ見かけない*8。気が向いたらこの日記でも触れるかもしれないが、本当はもっと適任者がいるはずだ。またStasi報告書は、具体的な立法に関する答申案の部分は出るとすぐにいろいろ叩かれた(これだけ取り上げて批判するのはたやすい)が、報告書全文での事実のまとめ、対立し合う原理についての省察は非常によく書かれている。日本での紹介でも法案の部分の批判は目にしたが、これを導いた全体の事実認識、考察への言及はついぞ見なかった。これも紹介してくれる人がいない。本屋では小冊子として売っていたが、PDFで無料でダウンロードできる


*1:ネット上で見た限りは(まだあるかもしれないが)次の二つがほとんど例外的と存在といえる。三面記事でフランス語週刊フランスのWEB

*2:その中でも、コーンベンティット兄弟(Daniel et Gabriel Cohn-Bendit が 2003年10月17日付けのル・モンドに発表した Une honte pour l'ecole laique (非宗教の学校にとっての恥)はヴォルテールばりの論調で極めて説得力がある。有料記事になっているが、Google検索である程度断片が出てくる

*3:フランスで教師の大部分が伝統的に左翼である事実も考えに入れたし

*4:出版社データ→Amazon.fr のデータ

*5:出版社データ→Amazon.fr のデータ

*6:この本が2003年9月に出た時点では著者は着用規制の法制化賛成には消極的だったが、結局法案賛成に−−一定の留保とともに−−態度を決定した。

*7:ウェッブサイトは→ niputesnisoumises.com

*8:パリの日本語紙Ovniに運動の簡単な紹介がある