スカーフとセックス

上のような性をめぐる抑圧の話は、68年以降の文化に慣れたフランス人を本能的に憤激させ、恐怖させるものがある。今日のフランスの女性に対する正統的エロティズムはたぶん、ギャラントリーの対象としての女性という古い伝統に起源を持つイメージと、68年以降の性革命の文化で解放された女性という比較的新しい伝統からくるイメージの複合からなっている。そんな中で、人は(男も女も)、女性が実質的(特に経済的)に差別されているという事実*1によりも、「自由な」性愛の対象としての「自由な」女性の性的魅力が奪われている女性のイメージにより敏感に反応し、嫌悪感を抱く。

イスラム・ヴェールをめぐる議論にフランス人がこれほどに熱心になるのは、これが政治的な問題であるばかりではなく、現代のフランス人の文化的自己アイデンティティにもかかわる性愛をめぐる問題でもあるからだろう。ここには単なる男女差別という問題意識を超えるものがある。スカーフの問題の本質に、セックスの問題、特に、集団間での女性の交換としての結婚の問題があることをはっきり指摘したのは、フラシンス・フクヤマだった。今年の2月4日づけのル・モンドに寄せられた「ヴェールと性の管理 Voile et contrôle sexuel」と題する文章*2で、彼は次のように言う。

伝統的なイスラム教徒は、自分たちの娘をベールで区別し、そのヴェールで彼女らが非イスラム教徒に対し性的にアクセス可能でないことを示すことにこだわるという点において、思われているより周到である。

Les musulmans traditionalistes sont plus astucieux qu'il n'y paraît lorsqu'ils insistent pour distinguer leurs filles avec un voile qui signale qu'elles ne sont pas sexuellement disponibles pour des non-musulmans.

temjinusさんが精力的に紹介してくれているエマニュエル・トッドは10年ほど前に、 mariage mixte 混合婚(「国際結婚」「異なるエスニー集団の出身者間の結婚」「異人種間結婚」)の比率がフランスで欧州のどの国に比べて飛びぬけて高いという事実によって、フランス式の移民の同化プロセスの特徴を明らかにした。混合婚が、常に移民を受け入れながらも国民統合を保証するフランス的解決の柱の一つであるとしたら、その障害として働くと無意識にでも受け取られるヴェールが「脅威」と人々に感じられるのは無理もない。少数集団には混合婚をしない自由もあるといえばそれまでだが、そうした自由はフランス人の自由観になじまない(少なくともこれまでのところは)。Ni Putes Ni Soumises では1990年代に起った共同体への回帰現象の中で「混合恋愛」自体が難しくなる空気の変化を証言している。これは実際に最近の統計データで確認できるものだろうか。調査もかなり困難だと思うが。

*1:フランスのフェミニストたちが強調するように、実質的な男女平等という意味ではフランスはヨーロッパの中で遅れてやってきた国であり、決してチャンピオンではない。議員の数、経営者の数で見たときの遅れなどはよく引き合いに出される。制度的にもナポレオン法典の影響が長く残り、近い過去にふりかえって極端な一例をあげれば、結婚した女性が夫の同意なしに働いたり、夫の許可なしに自分名義の銀行口座を開く権利を明白に認められたのは1965年に民法が改正されてからのことだ。

*2:ル・モンド掲載のものは有料記事になっているが、コピーが次の→サイトで読める