2004年8月1日、ワルシャワのシュレーダー

fenestrae2004-08-03


1944年のワルシャワ蜂起60周年記念式典が8月1日、日曜日に行われた。アメリカからはパウエル国務長官も出席したが、この日の主役は何といってもドイツの首相として初めて出席するドイツのシュレーダー首相で、日本でも大きく伝えられているようだ。簡潔によくまとまっている共同-Yahoo!-Japanの記事を引こう。

ポーランドとの和解望む 独首相、初出席の式典で
 【ワルシャワ1日共同】第二次大戦末期にポーランド民衆がナチス・ドイツに対して起こした「ワルシャワ蜂起」60周年記念式典に出席したドイツのシュレーダー首相は1日、「ポーランド人の誇りの地で和解と和平を望む」と述べ、両国の関係改善を要請した。▼ドイツ首相の同式典出席は初めて。元ポーランド兵ら数千人の出席者を前に「ポーランドに計り知れない苦悩をもたらした」とナチスの行為を謝罪した。▼ポーランドのクワシニエフスキ大統領は式典のあいさつで、首相の出席を評価。「廃虚から再生したワルシャワから和解と希望のメッセージを送ろう」と両国の和解を誓った。(共同通信)[8月2日8時49分更新]

1944年のワルシャワ蜂起とは、ネット上で簡潔にまとめてあるものを引くと。

第二次世界大戦末期,ドイツ占領軍に対してポーランド民衆の地下抵抗組織がワルシャワに結集・蜂起した戦い。1944年8月1日から10月2日まで,壮絶な市街戦が繰り広げられ,22万人の犠牲者を出したが失敗した。主因は,近郊まで兵を進めていたソ連軍が援助しなかったためとされる。ポーランド人民の反ファシズム抵抗運動・民衆蜂起の象徴として語られるとともに,戦いの激しさにおいても,ワルシャワがすべて破壊され焦土と化したことにおいても,第二次世界大戦の最も苛酷な爪跡として刻みつけられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/T/T362R100.HTM

前日の31日にネット版で出されたル・モンドの2つの記事「La Pologne célèbre le 60e anniversaire de l'insurrection de Varsovie ポーランド、ワルシャワ蜂起60周年記念式典」「Oubli, confusion et hommages douteux 忘却、混同、あいまいなオマージュ」の伝えるところでは式典の幸先ははかばかしくなかった。すでにポーランド人の神経を逆なでするような出来事が相次いだという。

ロシアのプーチン大統領レジスタンスに参加した人々に向けて「われわれの共通の勝利」に対するレジスタンスの貢献を称えた。これに対してポーランド国内で憤激の声が上がった。ソ連軍が市の外側まで来て動こうとしなかったことにより20万人以上の人間が見殺しになったのに、今さら「共通の勝利」も何もないものだという気持ちは当然だ。

アメリカの国務省パウエル国務長官の出席を伝えるコミュニケで、「ワルシャワのゲットー蜂起の60周年記念」と呼ぶ大失態をやらかした。ゲットーのユダヤ人が蜂起したのは1943年4月。今回の式典とは直接関係がない。43年のゲットー蜂起が強調され、犠牲においてももっと大規模だった44年の蜂起が陰に押しやられていることに、ポーラン人は不満を持っている。自らの責任を回避するためこの事件に目を向けさせまいとしてきたソ連の長年のプロパガンダに皮肉にもアメリカ自身がはまっているとル・モンドの記事は指摘する。

フランスの代表は現地の大使のみ。すなわち何もしないに等しい。フランスはそこまで欧州史の感覚を失ってしまったのかとル・モンドのコメンテーターは憤激する。

結局ロシアの代表も現地大使。いずれにせよ当日の式典の報道の主役はシュレーダー首相だ。1970年にブラント首相がゲットー蜂起の式典に出席した際、地にひざまずき犠牲者に弔慰を示したことがすでに引き合いに出されている中での演説だ。

シュレーダー首相の演説は次のようなものだ。テレビのニュースや新聞では一部しか伝えないが、ドイツ連邦政府のサイトに全文掲載されている

このような映像の後に話すのは容易ではありません。私たちは今日ポーランド抵抗軍の男女の犠牲的行為と誇りに深い敬意を表します。63日間もの間ワルシャワの男女の市民がドイツの占領に対し英雄的な必死の抵抗を示しました。彼らはポーランドの自由と尊厳のために戦ったのです。彼らの愛国心ポーランドという国の偉大な歴史の中の輝かしい例であり続けるでしょう。

私たちは今日ナチの軍隊の重い罪を前にして恥辱とともにこうべを垂れます。この軍隊は1939年にポーランドに奇襲をしかけました。彼らは1944年の蜂起のあとワルシャワの古い町を廃虚と灰に化しました。数え切れないほどのポーランドの男女、その子供たちが殺され、あるいは収容所へ強制労働へと駆り立てられました。ポーランドの誇りでありドイツの恥辱であるこの地において私たちは和解と平和を願います。

私が生まれ変わった自由で民主的なドイツの首相としてこの希望を表明することは、ワルシャワの蜂起者としてナチの蛮行に立ち向かったすべての人々に感謝することです。ところがこれらの人々をしのぶことは何十年もの間外国の政治権力によって抑えられてきました。しかしポーランド人の心の中で自由の英雄たちが忘れられることは決してありませんでした。

ドイツでは理解、赦し、和解を求める努力が力を得てきたのは最近になってからにすぎません。そして1944年にすでに誰も助けるもののなかったワルシャワ蜂起は長い間思い出の中でも打ち捨てられてきました。1989年にポーランドが自らを解放したあとはじめて、ワルシャワの旧市街の外れに、蜂起に参加した人々、彼らの勇気、彼らの犠牲的行為を追憶するための記念碑の立つことが可能になったのです。

ご来席の皆様、何人も歴史を起らなかったようにすることはできません。ポーランドとドイツが対等なパートナーとして属する自由な欧州において、歴史が捻じ曲げられてはなりません。そのような試みにはきっぱりと戦う必要があります。

....

潔さが力強さに転化するような演説の見本である。同時に抜かりなく戦後のソ連の責任に釘を刺している。シュレーダー首相の演説はこれで終りではない。ここまでの前半がポーランド人に心情的な理解を求めるものだとしたら、この直後にもっと現実的な問題に触れる。そしてそれらこそがポーランド側が最も期待していたことである。

まず演説は、戦後ポーランドを追い出されたことに対して補償を求めてポーランドを訴える人々に力を貸さないこと、国際法廷に対するこれらのアクションに反対する旨を明らかにする。またことばをついで、これらの人々(「Vertreibung 被追放民」と呼ばれる)が中心になってベルリンに設立を計画している「追放反対センター」に反対の意向を表明する。このセンターの計画は2000年ごろに話が出て保守党のCDUなどの賛成を得て話が進み、上記の補償問題とあいまって、ドイツとポーランドの関係に陰を落としていた。今回のシュレーダー首相の演説は両国関係に刺さるこの2つの刺を取り除く意志をはっきりとポーランドに示したものとなった。

シュレーダー首相の演説を不十分とし、またポーランド政府がこの機会に首相にメダルを授与することに憤激して、抗議行動を行うポーランド市民の一団もいた。またドイツ国内の「被追放民」団体からは激しい抗議の声が上がっている。が、全般的に見るならば今回のシュレーダー首相の演説は、レトリックと実質的な措置の両面でポーランド人を満足させ、国内的にもおおむね成功を収めたように思える。補償問題に対する態度にはCDUも支持を表明している。3日づけのDie Welt紙はイギリス(The Daily Telegraph)、フランス( Dernières Nouvelles d'Alsace ドイツ事情に詳しい地方紙)、ポーランド(Rzeczpospolita 保守系)の各紙の論評伝えるがいずれも非常に好意的である。

Die Welt 紙の引用する Rzeczpospolita 紙は次のように論評する。

第3次共和制(1989年以降)の短い歴史の中で両国の関係は今のところ最悪である。しかもベルリンの追放反対センターという挑発的な計画やポーランドに対する補償請求という姿をまとって過去の亡霊が新たに現われてきていた。この点から言って、首相の疑問の余地のないことばはあらゆる不安を吹き払うものである...同時に、ポーランドが犠牲となった戦争に対するドイツの罪と責任を認めることばがはっきりと聞かれた。

シュレーダー首相は演説の中で独仏和解について触れている。仏独和解もいろいろな反対の声を押し切ってなされたものであった。個々人の立場をとにかく押し切って−−場合によっては犠牲を甘受させながらでも−−成功した独仏和解に倣って大筋の和解を進めようという両国の決意がこの一件に見て取れる気がする。