「パリ解放」はどう祝われてきたか

fenestrae2004-08-25



一週間以上続いてきたパリ解放60周年記念行事が今日と明日クライマックスを迎える。1944年8月24日にパリに到着したルクレールの第2機甲師団とロル=タンギの指導するパリのレジスタンスの攻勢により25日には占領軍の責任者フォン・コルティッツが降伏文書に署名。夕方にはドゴールが到着、翌26日にはシャンゼリゼをパレード。当時のフィルムがテレビの画面で何度もくり返され、パリではさまざまな催しが行われ、フランス人はは60年前の人々の喜びを−−実際にそれを知ったものも知らないものも、パリジャンもそうでないものも−−追体験することになる。

一国のある体制の出発を象徴する出来事の記念日が一般にそうであるように、この式典の祝われかたには、そのときどきの政治情勢が反映され、そのときどきの政治指導者が人々に伝えたいメッセージがこめられる。今日25日付けのル・モンド(ペーパー版)の、そうした視点からこの60年を振り返る解説記事を掲載している。

1944年−2004年、記念式典の政治的意義
1944-2004, les enjeux politiques d'une commémoration

LE MONDE | 24.08.04 | 17h25 ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 25.08.04
par Nicolas Weill


レジスタンスをフランス人がどうとらえるかを通して、フランス戦後史の一つのいいパノラマになる記事。お祭の様子や、歴史のエピソードを伝える代わりに、この記事をルーズな翻訳によって紹介する。レジュメとというより翻訳に近いものだが、細部にこだわらない訳で、明示しないで省略したりパラフレーズしている。お勉強のために適宜訳注を入れます


今回60回を迎えるパリ解放の記念祭は、常にその時々の政治的な意味づけが込められている。パリ市のドラノエ市長によれば、この解放がもたらす価値すなわち、「平等、社会正義、連帯の上に戦後のフランスがあり、われわれは皆その遺産を相続している」。

しかしこの遺産はいつも同じような熱狂を持って記念されてきたわけではない。歴史家のパスカル・オリー(20世紀社会史研究センター)によれば、戦後最初の数年をすぎた後には、熱狂は静まっていたという。1950年代には、共産党が勢力をもつ区での追憶を別にすれば、人々が占領時代に対し持つイメージは、映画「パリ横断 Traversée de Paris」(クロード・オタン=ララ監督、1947)に描かれたような、外からの助けを求める無気力と闇市に支配された暗い絵だった。

1958年にド・ゴールが政権に返り咲くと、この日付に特別の輝きが再び与えられるようになった。この時期パリ解放の思い出は、当時の2大政治勢力ド・ゴール主義者と共産党が権力を二分しているということを象徴的に示すものだった。*1。このペアを描くのが「パリは燃えているか」(ルネ・クレマン監督、1966)である。「この時から、パリのレジスタンスの二人の代表者、ドゴール派のシャバン=デルマス*2共産党派のロル=タンギ*3が両派の記憶を一つのものに収斂させようとしはじめ」、「カリスマ的指導者(ドゴール)と前衛党に指導され団結したレジスタンスのイメージが発せられた」(ドニ・ペシャンスキ、CNRS)。

ドゴール派と共産党派の間にあって他の政治勢力は長いあいだ忘れ去られていた。キリスト教民主主義者、そして社会党派である。社会党派が忘れられていたのは、占領中にこの党の地下指導者たちがとった政治選択に起因している。ダニエル・メイエ*4に代表される指導者たちは、SFIO(労働者インターナショナル・フランス支部*5の再建にすべての努力を注ぎ込み、自らの名のもとに武装レジスタンスを組織しなかった。これが共産党との違いである。

リベラシオン・ノール Libération Nord は社会党派によって作られたが、これはやや例外的で、社会党派の運動員は既存の組織網の中に散らばっていた。「アンドレ・マルローの有名なセリフ『共産党と私たち(ド・ゴール派)の間にはだれもいない』というのは事実でない!」と、社会党の書記局員で歴史家のアラン・ベルグニウは憤慨する。

実際レジスタンスはこの党でも、戦前はほとんど名を知られていなかった人々を解放後の指導者に押し上げているというのは思い起こされてよい。1956年から57年に同党の評議会長となったギー・モレ*6や、1971年のエピネー大会の前にミッテランの前任者として社会党の党首であったアラン・サヴァリー*7がそうした指導者に属する。

この時期のあとに解放の思い出はやや影の薄いものとなる。レジスタンスと直接の関わりの薄い人々が政治の中心に出てきたこと(大統領にジョルジュ・ポンピドー、共産党の党首にジョルジュ・マルシェ等々)。特に、1970年代になり歴史研究によってヴィシー政権時代のそしてユダヤ人迫害の事実が再浮上してきたことが関係している。また、解放の主役の一人であったジャック・シャバン=デルマスが権力闘争に破れ中央政治から退いたこと、また1981年のミッテラン大統領誕生のあとの歴代左派政権とパリ市長ジャック・シラクとの関係が緊張をはらんだものであったことで、一体感が失われた。1989年の45年記念では当時の国防大臣ジャン・ピエール・シュヴェヌマンが欠席するということまでおきた。

その間に、歴史家はパリ解放についての美しすぎる図式に複雑な像を与えようと試みてきた。たてとえば表向きの団結の裏に冷戦の背景があることを探ろうとした。「今日、すべてが滑らかすぎ、完璧だ。目的について皆がぴったり一致した意見を持っているような印象を抱かせる。レジスタンス内部での分裂には十分に注意が払われていない」と、パリ第一大学のアンドレ・カスピは嘆く。「そうした記念式典から教訓を汲み取ることはできない。共産党レジスタンス活動家に人はヒロイズムしか見ていない。しかし彼らは筋金入りの政治運動家でもあった」。

一方、1990年の初頭からめざましい進歩をとげるレジスタンス史の研究者の中には、後代の目による構築の試みに警戒する人々もいる。1944年8月の出来事を、東西対立の相のもとに、殺伐した政治的利害の対立を隠すものとして解釈し直すことを行き過ぎとして。「対立があったにせよ、すべてを暗く見る伝説に陥ることは避けるべきだ。レジスタンスに参加したものはそう多くないし、彼らの間には一種の結託があった。彼らの団結はまったくの神話というわけではない」(ペシャンスキ)

しかしいずれにせよ、常に新しい政治的メッセージが、解放の物語の背中を押す。50周年記念式典は仏独和解によって彩られた。60周年記念は解放軍への外国人の貢献を中心に祝われている。

1994年の50周年の際には共産党のロベール・ユー書記長(当時)はドイツ軍が欧州軍団(Eurocorps)の一部として参加することに抗議したが、今回は−−式典の国際性に賛辞を呈しながらも−−「社会保障や国有化という、解放の結果得られた改革を損なうような反改革策を行う」右派の政府が解放を賛美する逆説を皮肉る。

一方、UMP(与党)の議員で、どちらかといえば国家主権主義派(反欧州派)に属するニコラ・デュポン=エニャンも、「フランス人は、欧州憲法によって失いつつあるものを喜んで記念している」「社会保障や公共事業の民営化はドゴール将軍の業績をなし崩しにすものだ」と嘆く。

国民戦線(極右)では、共産党レジスタンスでの功績を全面的に認めず、「ドイツがソ連と戦争をはじめてからやっと活動を開始した」共産党レジスタンスの神話賛美にシラク大統領が協力していると批判する。

社会がばらばらになり複数の共同体へと分かれていく時代にあって、レジスタンスの精神の昂揚は、社会の成員の絆を新たにするための格好な方策だと考えられている。「パリ解放60周年記念はフランス人の団結を強め必要性に合致している」(ベルグニウ)

レジスタンスへの市民たちの回帰?」「それはいいことだが、それは仮説に留まる。もしかしたら敬虔な祈りにしかすぎないかも知れない」と、パスカル・オリーは言う。

記事ここまで

*1:共産党は戦後、第五共和制のスタートする1958年までは、25%から30%の得票率、58年以降も70年代の終りまで20%内外の得票率を常に有し左翼勢力で最大の党であった。1971年に誕生した統一社会党共産党の得票率を上回るのは78年のこと。もはや過去に属するが、レジスタンスで果たした役割によって共産党が世論に対して持っていた威信、マルクス主義の理論によって知識人に対して持っていた影響力を忘れると戦後から70年代末までのフランスの政治・社会・思想史の構図は理解しにくくなる

*2:ジャック・シャバン=デルマス Jacques Chaban-Delmas (1915 - 2000)。1942年、ニースでドゴール派のレジスタンスに加わり、ドゴールの命を受けてパリ解放を組織。1947年にド・ゴールのRPF (Rassemblement du peuple français)の結成に参加。1969−1972年にポンピドー大統領のもとで首相を勤める。1974年の大統領選挙でポンピドーの後継を目指すが、ジスカール=デスタンに右派の主要候補の座を奪われる。さらにシラクとの争いでドゴール派政党の中で主導権を失う。1980年代には国民議会の議長を勤める。1945年から1995年までボルドーの市長。

*3:アンリ・ロル=タンギ Henri Rol-Tanguy (1908-2002) 鉄鋼労働者として10代から組合運動家、共産党員として活動。1940年より地下活動に入り、パリ、イル・ド・フランスの共産党系のレジスタンスを組織。44年8月のパリでの蜂起を指揮。8月25日のドイツ占領軍降伏の際、ルクレールとともに解放軍を代表して文書にサイン。1962年まで職業軍人にとどまる。軍役を退いた後、1987年まで共産党の中央委員を務める。

*4:ダニエル・メイエ Daniel Mayer (1909 -1996)。1940年、議員としてドイツへの降伏決議に賛成。1941年に社会党派のレジスタンス Comité d'Action Socialiste を組織。1943年にジャン・ムーランが指導するレジスタンス統一に参加。社会党派、共産党派の共同行動に尽力。

*5:SFIO : Section française de l'internationale ouvrière。1905年に第二インター系の労働者党として結成された社民主義政党、通称「社会党」の正式名称。1969年に組織を改変し「社会党」となる。1971年のエピネー大会で新路線を打ち出し、ミッテランを第一書記に他の左翼勢力を結集。

*6:ギー・モレ Guy Mollet (1905 - 1975) 20代より英語教師、SFIOの党員として教員組合運動で活躍。1942年よりレジスタンス活動に入る。1946年から1969年までSFIOの総書記。1956-57年には首相を務める。

*7:アラン・サヴァリ Alain Savary (1908 - 1988) アルジェリア生まれ。1940年よりレジスタンスに加わる。ギー・モレ内閣のもとで1956年チュニジア・モロッコ担当大臣を閣僚を務めるが辞任。1958年にはSFIOのドゴールへとの連立に抗議して脱党。社会党系独立会派を組織。1969年の社会党結成に参加し、1971年のエピネー大会まで第一書記を務める。81-84年には教育大臣。