10月19日記事へのコメント

10月19日の記事にこの日記始まって以来の数のコメントがついた。いつもになくはてな外からのものが多い。わざわざコメント用フォームを大きくしているくらいなので、コメントがたくさん寄せられのは歓迎であるし、コメントをよせる方同士での議論になるのも、内容のない不毛な応酬や本文と遠く離れた細部にすぎる議論が延々とつづくのでない限り、歓迎したい。はてなはログ保存の際コメント欄まではカバーしないそうなので、これまでのところを本文に再掲させていただく(19日記事関連でないコメントを一部省略)。個々のコメントへの返事はここではひとまずご容赦願う。トラックバックやリンクも複数いただいている。それをある程度受けた形で次の記事を書くことにしたい。

感想です
『100人斬りの話は軍人が軍人を斬るという話であり、敵を何人屠るという行為の主張です。それを野蛮と切って捨てることは簡単ですが、そもそも武士というものの考え方が未だ残っていた時代において、今の感覚で話をするあなたの主張は何だかなぁ、という感想があります。
また、震災の際の日本人の行為は明らかに虐殺ではあるけれど、なぜ朝鮮人が虐殺されなければならないほど、流言が信じられたのかその背景と未曾有の災害という状況とを考えなければ、表面しかとらえていない薄っぺらな主張にしか聞こえません。』

kagami
『上段の方のお言葉通り、現代のパラダイムを持って過去の歴史を断罪するのは、極めて不健全ではないでしょうか。特にそのことが政治的特権と結びついているときはなおさらかと思われます。イメージというプロパガンダに組みこまれた歯車ではなく、極めて慎重かつ誠実な多重の検証とそのこと自体(唯一なる歴史は存在しない)を裁くのではなく、役立てる観点が必要かと。』

aki
『大変面白かったです。
確かに「「人道に関する犯罪」の存在を否定する発言を行うことは犯罪にあたる」等、
民主主義の保障装置にまで制限を加えてしまうのは受け入れがたいと感じてしまいます。
ただ、修正主義批判について意識すべきは欧州との差ではなく中国との差では?
と、やはり違和感を感じました。
あと、「「なかったゲーム」は「あったゲーム」の裏返しだよね」
という断絶の反対側にある意見にも目をむけて頂けたらと思いました。』

yiyi
リヨン大学[→国民戦線 (コメント者の申し入れにより訂正)]のNO2、ゴルニッシュ氏の細君は日本人。で、2−3年前か、リヨン大学のたしか図書館だったと思うんですけど、日本の笹川財団から巨額な寄付がありました。これ、当時ル・カナ―ルがすっぱ抜いていました。』

感想を読みました
『「感想です」さんへ。
素朴な疑問なのですが、もしネオナチの人たちが、
ホロコーストを野蛮と切って捨てることは簡単ですが、そもそもユダヤ人差別というものの考え方が未だ残っていた時代において、今の感覚で話をするあなたの主張は何だかなぁ、という感想があります」
と話しかけてきたらどう返事されるでしょうか?
私はホロコースト南京事件を同一視するつもりは全くありませんが、「現在の目から裁断するのは正しくない」といって判断を停止するのも何だかなあ、と思います。』

感想を読みました
『「感想です」さんへ。(追記)
「今の感覚」だけでなく「当時の感覚」からいっても普通に考えて100人斬りは正当化されるんでしょうか。もし日比谷公園で100人斬りをやっている人がいたら?もし自分が100人斬りされる立場だったら?
それに、武士の感覚からいって100人斬りは当然、とおっしゃるのでしたら、それは米英のプロパガンダにおける日本人観と大して変わりがないと思います。』

yskszk
『「武士というものの考え方が未だ残っていた」のが事実かどうか、それこそきちんと論じる必要があるでしょう。私はその当時の日本について、文学者が書き残したテクストと自分自身の肉親の言葉以外に何も知らないのですが、「もののふ」めいたエートスをそこから感じ取ることはできません。
んなことはともかく私の祖父は新聞記者で、太平洋戦争中に従軍記者として中国に赴いていました。そのことは前から知っていたのに、「もしかしたら私の祖父も『翼賛』記事を書いていたかもしれない」とは思い至らなかった点、やはり何かを抑圧しているのでしょう。はふー。』

むにゅう
『>相手の議論の1%の隙をつきながら行われる「なかった主義」の議論
あった主義の、捏造や嘘もすごいですけどね。
歴史として分析される以前に、日本の左翼が南京虐殺を自派のイデオロギーのために利用してきたことへの反発が、今、来ているのだと思います。
1960年代からは、左翼の言論弾圧がひどかったですから。』

感想です
『どこの国の軍人でも、戦争となれば敵の軍人を倒すことが目的となります。これはどこの国の軍人も一緒です。そう、自衛隊でも。
ですからネオナチも持ち出すのは大間違いですよ。
それに現在の目で裁断する方が楽ですし、思考停止です。
なぜ、その当時はそれが許されていたのか。そういったことをその当時の考えを持って考察しなければ、何も見えてきません。
また、あくまでも敵の軍人を斬るのであって、民間人を日比谷で斬るわけではない。そういった議論のすり替えもどうかと思いますよ。
人を100人殺すのはひどいことだ!だから100人斬りも悪いことだ!
これは思考停止です。
英米プロパガンダにかかわらず、現在においても軍人は究極的に敵国の軍人を殺すために存在しているのです。
そしてその発動をするのは政治です。
武士というものの考え方が残っているかどうかは時の文献を読んでみればわかるはずです。どれほど勇ましい文面が残っているか。』
感想を読みました
『何か見えましたか?』

匿名
『 コメント欄でのお話を見ていていくつか疑問があります。
・「南京での」100人斬りは、はたして軍人が軍人を切るといった話であったか?
・軍人の存在意義は、敵国の軍人を殺すことではなく、広義に「戦略を達成すること」ではないか?(戦術を考えることや、物資輸送、制空権などの確保、あるいはある地域の資源をわがものにするなど)
・「武士というものの考え方」の中核は、はたして勇ましさだろうか?
言論統制が今日よりも格段に激しかった時代の「勇ましい文面」は、戦意鼓舞のために恣意的になされているものではないか?』

10月21日現在。