美的判断の問題

数日前に話題になった記事
「落書き、知力低下反映? 単純な絵などばかり 仙台 河北新報 2005年06月14日」
記事を読むと、倫理的判断は当然のこととして、美的判断にも満場一致がみられる。

  • 仙台の街を汚す落書きの質が低下してきた。もちろんどんな内容であれ犯罪だが、以前の落書きはメッセージや芸術性を感じさせるものも少なくなかった。それが最近は単色で、排せつ物の単純な絵やわいせつな文言などばかり。
  • 2年ぐらい前までは芸術的な落書きもあったが、最近は単純なものばかり
  • 知力が落ちたのか、低年齢化が進んだのか
  • なんでこんな刹那(せつな)的なことをするのか。深い意味もなく、今が良ければいいという短絡的な落書きだ
  • 単純で雑なものばかり
  • 落書きはすべて許せないが、最近は美的感覚のないものばかりで、なおのこと頭にくる
  • 難解な漢字を使って強烈なメッセージを示す落書きは、暴走族など統制のとれた集団が書いていたが、最近の若者は個人化して統制もない。そんな若者が自分の存在を示したくて落書きしているから、自己満足でメッセージ性もなく、意味不明な内容になっているのではないか

graffiti ancient
はてな内外のブログを少し見てまわる。はてなでも倫理的議論が意外に多く、皆まじめだなと思う。取り締まりと描画時間の関係に関する指摘はなるほどと思う(id:using_pleasure:20050614)。

それにしても、新旧二つのモードで、新のほうを美的に優れている、または好ましいという立場がないのにはて?と思う。比較用に掲載されている写真で、最近のやつのほうが「より美しい」と思う私は美的感覚に欠陥があるのか。
graffiti moderne
私の感性では、都市景観全体から見ても、落書きは「へのへのもへじ」やとぐろをまいたそれの絵、Fuck You!などがよりよく調和する。まあ趣味判断の問題だが。

ほうっておいてもそれぞれのタッチや形に自然とオリジナリティも備わるものだ。刹那的な美的行為という観点からしても、さっと描いてさっと逃げるというほうが、落書きの王道だ。もう一方のほうの細部の完成への意志は尊敬に値するが、「芸術作品」や「芸術的評価」におもねっていようでなにかせこい。もし完成された落書きを芸術的と誉めそやす物分かりのいい大人がいるとすれば、それを「幼稚」なFuck Youで拒否する意志もあってもよい。

「最近は美的感覚のないものばかりで、なおのこと頭にくる」という発言は、消すのが大変だという文脈でのものだが、添えられた写真をくらべると、消す手間を考える功利的判断からも、どちらかというとやっぱり最近のが好ましいと思う。