中期的観察−TBに答えながら補足

11月14日と17日に2部に分けてアップした「置き去りに去れた郊外・燃える郊外」の記事に、id:antiECO さんから、「今を表す言葉とそれに反応する人々、そして情報操作(1)」という記事でトラックバックをいただいた。


実は、11月13日に復帰してから書いた郊外の騒動関係の記事に、何人ものかたからトラックバックをいただいているが、これまで非礼とは知りつつ、とくにこちらからお返事のコメントなどを書いていない。もともとブログに割ける時間とエネルギーがなくて休んでいるところに、今度の郊外の騒動の件でどうしても黙っていられない気持ちで復帰した。一方、本文に書き進めたいと思っていることが多すぎる上、状況がどんどんと動いていくので、論じている対象についての情報修正を伴うような議論でない限り、遠慮させてもらおうという気持ちからである。

急いで書いているので、私の議論はいつもより穴が多い。一応確かめながら書いてはいるが、急いで歴史的俯瞰をしなければいけないところにいつものように出典をつけるということは困難だ。そういう穴を埋めてもらったり、異なる意見をぶつけてもらったりするのは、上に述べたような今回の特殊事情にもかかわらず、もちろんありがたいのだが、id:antiECO さんからいただいたトラックバック先の記事で、「最近読んでいて、使われた用語などについて気になった具体的事例」として私の記事があげられている部分の論旨について、実のところは、あまりポイントが理解できずに、どうお返事していいか、当惑している。当惑はしているが、「気になった具体例」と指摘された以上、お返事しないわけにはいかないだろう。

議論のための議論をするよりは、あまり知られていないデータを紹介したり、面白い記事の抜粋でも紹介したほうがいいと思っている、つまり、物理的に言うと、引用符の中が、フランス現地での報道記事より、他のブログからの引用というような記事は避けようと思っているので、それに留意しつつ、指摘に添って見ていく。その最初のものとして−−

逮捕者の数

antiECOさん wrote

まずは、今回フランスで多発的に発生した車への放火等を行った者ですが、警察にパクられた若者らは約3000人弱そして未成年者(18歳以下)が多かったのですが、そのうち拘留されたのは600人強でそれ以外は身柄を拘束されていません。また、その600人強のうち100名強が未成年者ということらしいです。この数字について触れられているブログを私はあまり見かけていませんし、このfenestraeさんの二つのエントリーにもその旨の記載はありません。

この統計の値を引用しなかったことで、14日にアップした"Police de proximité"から CRS への転換がもたらした緊張の高まりという、多くの人々が指摘する現象を紹介した私の文章にいかなる歪みが生じるのか、実は何度考えてもわからない。17日のアソシエーションについての文にこれを持ってくるのはもちろん「主題外 hors sujet」である。

もともと、13日から始まるエントリーは、緊急の気持ちでとにかく急いで書かれたものでもともとが、ほとんど数字を用いずに全体の傾向を書いている。antiECOさんのこれまでの文章も具体的な数字を挙げて書かれたものではないように見受けられるが、なぜここではじめて出てくる数字に過去言及していないことが問われるのか分からない。そもそも14日の文は、事件の現況や被害状況を伝えるものではなく、過去3年間に起ったことについてのものだ。だからもっと時間があって確実な統計資料を利用できたら、まず何より、警官数の増減についての数値を、そしてまた、警官と若者たちの緊張の指標になる公務執行妨害の類の検挙件数や逆に警官の不当暴力が問題になったケースの数の増減を示したろう。ちょうどいい機会なのでいちばん最後のものについて一つ紹介すると、2005年2月、ドミニク・ド・ヴィルパンがまだ内務大臣だったころに出した通達を伝える記事。

「人間的」な警察にとのヴィルパンの通達。
Une note de Villepin pour une police "humaine"

NouvelObs 25/02/2005

この通達は、解職・停職などの処分を受けた警官が2004年の集計で22,65%増加したという事実を受けてのものであり、この中でヴィルパン内務大臣(当時)は次のように言う。

成果主義には、警察官が市民−−それが犠牲者であろうと証人であろうとそして犯人であろうと−−と保つ関係の質によってもはかられる。
...
警察の職務は、法や規則、職業倫理規定を守りながら執行されなければならない...法の名のもとに逮捕された者は何びとだろうと責任ある態度と警察の保護のもとに置かれる。

これらのことばの裏に逆に「成果主義」のもたらした弊害が読み取れるだろう。

そしてそれから3ヶ月後の5月31日の内閣改造で、ヴィルパンの首相就任とともに内務大臣が再びサルコジにかわると、6月にさっそく例の「水圧掃除機で清掃」発言が飛び出し、そのあとどんどん緊張が高まっていく。このあたりから考えても、2月の通達に象徴されるようなヴィルパンの路線のまま続けば、短期的には、今回の爆発は避けられたのではないかと想像することもできる。


antiECO さんの指摘の件に戻る。

以上のように、14日の文は事件の現況を伝えるよりも、一触即発状態になっていく過程を理解するために中期的観察として書かれたものである。事件の現況にいくらかなりとも触れているのはむしろ13日の文だが、ここでも詳しいデータを紹介することはできなかったので、わざわざその欠を補うために、今回の騒動を追うために作られたWikipediaのエントリーのまとめの表にリンクを送っている。そしてこの時点では私の知る限り逮捕状況についての累積データは発表されていなかった。

そして実は上のこととは別に、「警察にパクられた若者らは約3000人弱...拘留されたのは600人強...うち100名強が未成年者...このfenestraeさんの二つのエントリーにもその旨の記載はありません。」という antiECO さんの指摘について、私が最もとまどうのは、次のことだ。

antiECO さんの情報源が何か分からないが、私の知るこれに最も近い出典ををあげておくと、次のようなリベラシオンの記事が紹介する内務省発表である。

Libération jeudi 17 novembre 2005
Evénement Banlieues A savoir

10月27日以来、2888人が尋問を受けたが、その中で最年少のものは10歳。合計で590人が拘留され、107人が未成年者である。

2 888 personnes ont été interpellées depuis le 27 octobre, le plus jeune âgé de 10 ans. Au total, au moins 590 personnes ont été écrouées, dont 107 mineurs.

このリベラシオンの記事はネット版でも17日の朝掲載されている。これは16日の内務省発表によって書かれた記事だが、16日の段階では、ル・モンドのネット版、Google Newsなどををチェックしても、2888人という数字を伝える短報だけで、未成年者のうちわけなど細かいことは伝えられていない。詳細を含むニュースとしては私が今手に入れられる限りでは、このリベラシオンのものが最も速い。17日づけのエントリーを、私は17日の明け方アップした。新聞やネット版ニュースが私の主な情報源であるが、その時点でリベラシオンのこの数字は利用できない*1。私が記事を書いた後で報道された統計について、それを引用していないと、ずっと後になって書かれた記事で指摘されても、マダム・ソレイユではない私はとても当惑してしまう。

警察と若者の関係

antiECO さんは、ついで私の14日の記事について「(A)警察と若者の関係」と題して、次のように述べられる。

ところで、fenestraeさんは、「置き去りに去れた郊外・燃える郊外(中期的観察 2002年5月−2005年11月」において、「防止と抑圧−−ご近所警察と機動隊」及び「警察と若者たちの摩擦 (付−−フランス語俗語講座)」というサブタイトルで、若者と警察の関係について触れられていますが、実際にフランスで近年どのような犯罪があったかについては触れられていません。


もう一度繰り返すと、14日の文は、何故このような騒動が2005年10月に起きるにいたったかたかということを数年のスパンのベクトルの向きで理解するために書いている。その地域で犯罪が多発しているというのはいうまでもない前提、共通認識だ。だからやはり上のような指摘には当惑する。

私は、警察と若者の紛争で、警察が悪いのか若者が悪いのか道徳的判断を下すために書いているのではない。当たり前だがそれは個々のケースでも違う。これに関しては、社会学者の専門的調査もあり、複数の報告書が出、本も書かれているが、当然白黒で割り切れるような答えが出るわけはない。善悪でなく、ある事態への時間的変化を見ているからわざわざ、「是認的価値判断という意味での「理解」を云々しているのではないので、道徳議論でのコメント欄炎上お断り」とも書いた。後者の価値判断は前者の理解にとってかわることはできない。だから若者たちを何が警察との紛争に駆り立てるのか、その大きな理由としてとりざたされる事象について紹介しないわけにはいかない。そして、両者の間の紛争に触れるときに、警察が被っているプレッシャーについても触れる配慮は怠らなかったつもりである。

そして、antiECOさん感想では、

おそらく、警察と若者という言葉を聞いたときに私が最初に思い浮かべる事象とfenestraeさんが思い浮かべる事象に違いがあるからではないかと勝手に思っていたりします。

ということで、その「勝手に思っている」内容を私は知るよしもないが、たしかにそうかも知れない。私は車が燃えるHLM群を目の前に何年か住んでいたことがある(というより私の住んでいた場所の目の前のHLMである時から車が燃えるようになった)。そうした所に住んでいると夜の少しの物音にだんだん疑心暗鬼になってくる気持ちも体験した。目のうつろな若者がたむろしているような場所が、今の仕事場の近くにある。私自身が軽微な犯罪の被害にあったこともあれば、もっと深刻な被害にあった人につきあって行った夜中の警察署や緊急病院の殺伐とした雰囲気も知っている。しかしこんなところで冒険物語のように自分や知人の被害話のコレクションを自慢しあってもしょうがないと思っている。

公民館や役所の出張所のドアや窓がすべていかめしい鉄板と鉄の網で補強され、それでもガラスの破片がそのあたりに散乱しているような地域に定期的に通ったことがある。そこに住んでいるのは「社会のクズ」=犯罪者だけではない。「善良な市民」が大多数だが、しかし、それときっぱり分かれた「クズ」だけが存在しているのでもない。多くの、時には若い「クズ予備軍」が灰色のゾーンで行き場なくうろうろしている。クズを水圧掃除機で清掃するというとき、その灰色ゾーンに入ってしまった若者たちをどうするのだろうか。私が2つの記事で私なりの解説を加えながら紹介しようとしたのは、そんな地域をさらに緊張が高まる状況に追い込み、こうした爆発をもたらした、この数年の変化にある大きな要因として多くの人が理解しているものである。

国民戦線の勝利によるアソシエーションの受難、NTM

私の17日の記事の「気になるところ」については、antiECOさんは「(B)アソシエーションという用語」という項目をものされている。

最初に述べられている、ラップやNTMについての音楽的、イデオロギー的価値判断については私も私なりの意見があるが、アソシエーションの郊外での活動の窒息を今回の騒動を生んだ状況の中期的要因の一つとする論旨には関係がないので、この議論には入らない。また、体制を批判する文化活動とこれに対する公的援助−−もともとは現体制に批判的な者も含めた納税者、社会保障費の負担者が出した金の使い道の話ではないか−−のあり方についての議論もパス。

そして次のような「リクエスト」をいただいた。

ここで私がここに書かれていること以外に知りたいなと思う情報は、ラップ少年たちのコンサートがなくなったり、NTMがプログラムが外された理由です。ラップだけではなく、コミュニティセンターがつぶれた理由は何とされているのだろうかということがここにはありません。

ブログの記事としてはかなり長いほうに属する 9900字の記事を書いたあとに、当人としては確かに取りこぼしが多いことは意識してはいても、それこれの情報が足りないという注文には、正直のところへなへなへなと力が抜けた。antiECOさんがご自分の好奇心に従って補っていただければ助かるのだが、そういう試みはないようだ。10年前におきた小都市の市政をめぐる紛争のひとつひとつに立ち入って論じていくのはこれまた大変なエネルギーがいる。国民戦線は移民のアソシエーションに補助金を出したり、移民を「優遇」する政策にすべてに反対しているという背景があるが、個々の補助金カットなどには小さな規則違反などの口実を利用していくので、なおさらのことだ。しかし全体的な流れについては、たとえば1998年のル・モンドの特集記事が、その一端を伝えてくれる。

コメント欄でもだいぶ問題になったNTMの件については、一言しておく必要がある。NTMのメンバーのジョイ・スターには、長い個人的な逮捕歴があり、antiEcoさんは、1996年のコンサート出演停止の問題をそれに結び付ているように見受けられれるが、しかし、1996年に時計の針を戻し、事実に即して見てみよう。この件については特に、 L'Express のネット版がよくまとめた記事を掲載している。

1995年7月14日NTMは、ヴァール県のトゥーロン近郊の La Seyne-sur-Mer でSOS-Racisme 主催の「自由のコンサート」に出演した。これは前月の選挙で、トゥーロンで極右の国民戦線の候補が市長に選出されたことに対するリアクションでもある。コンサートには MC Solaar, パトリック・ブリュエルのほか元文化大臣のジャック・ラング、(芸能派)左派知識人でマスコミの寵児であるベルナール=アンリ・レヴィも参加した。共演者を見ればわかるようにこのときNTMは必ずしもアンダーグラウントの扱いではなかったし、反ユダヤ主義も問題にはなっていなかった。

が、このコンサートのとき、ジョイ・スターは会場で警察をファシストよばわりすることばを発し、警察官の組合から訴えられた。そして96年11月に「公務員侮辱罪」で6か月の禁固(うち3か月の執行猶予)、半年間のコンサート禁止の判決がおりた(ついでに言うとこの時の判事はもと警察官だった)。日本でこういう判決が可能かどうか分からないが、フランスはそういうことが起こりうる国だ。さすがに右派の政治家からもこの判決の重さには異論が出た。そしてニ審では執行猶予つきの2か月の禁固と罰金に「減刑」される。が、これらはすべて後の話である。

こうした問題が起きている最中、1996年6月、NTMは同じヴァール県にあるシャトーヴァロンのダンス・映像国立劇場Théâtre national de la danse et de l'image (TNDI) の主催するヒップ・ホップ・フェスティヴァルに呼ばれた。このときさらに話を複雑にしていたのが、反国民戦線をはっきり表明して活動していたその総監督のジェラール・パケとトゥーロンの市長およびヴァール県の右派の間にある対立である。国民戦線およびそれに近い線の右派ははNTMが「公務員侮辱罪」で裁判になっていることを重要な持ち駒として用い、NTMそして劇場監督のパケの両者をターゲットに運動を展開した。そして、保守的右派の中でも最右派に属する県知事を動かし、予算の停止の脅しのもとにフェスティヴァルからNTMの出演をはずさせる。結局、この後もパケに対する追い落とし工作は続き、彼は翌97年に2月に解雇される。結局この一連の事件は、1997年にはじまった、左派の文化人を重要なアクターとする左派の政治的巻き返しの運動のきっかけの一つになった。

以上のような政治的策動の文脈の中にNTMの出演取り消しはあり、当時、こうした政治的攻撃に反対した多くの人と私は意見を共にした。antiECO さんは違う意見をもっておられるかも知れないが、いずれにしてもこれは、17日の記事の論旨とは関係がない。丁度いい機会となったのでざっと概略を書いたが、こうした概略でさえ、17日のあの長く複雑になっていた記事の中に盛り込むのはほとんど不可能であることは、お分かりいただけるだろう。

アソシエーションの概念

最後に、アソシエーションの概念について、antiECO さんは、ヴィルパン首相の演説の中に出てくる「住居&教育」のアソシエーションということばを挙げ、それと

「fenestraeさんのその後文末まで続くアソシエーションにまつわる一連の話」との関連が私個人の理解ではどうもぴったりはまっていなかったりします。

と述べる。

アソシエーションの概念は17日の文の中で紹介したように極めて広い。それぞれが自分の経験にもとづくイメージを持っている。私の紹介する例が文化偏重になっているのは百も承知だ。その理由は、複数ある。簡単に列挙すれば、1)まず私の経験がその方面に中心があるので体験から語るのはそれがいちばんてっとり早かったこと(やりもしなかった街頭でのスープくばりや、麻薬中毒患者のカウンセリングについて私は語ることはできない)、2)はてなの読者層から考えて例を持ってくる際に文化方面がもっともピンとくるだろうと思ったこと、3)私が地域の文化的活動のもつ紐帯の役割を重視すること、4)アソシエーションに地域の若者が参加するダイナミズムを描きたかったので上から与えられる慈善事業に近いものよりも若者自身が自分たちで主役になれるような例を選んだこと、等である。

それでも文化偏重になるのを避けるため、一応気をつかって見出しなどでは、わざわざ、ことあるごとに文化活動と社会活動をの用語を併記し、「福祉関係のボンランティア組識」のような例も入れたはずである。そして、また経験のバイアスを避けるために、一般的な紹介へのページのリンクもつけている。エントリーの最初のほうでアソシエーション活動について「主な分野は文化、スポーツ、福祉、教育等々」と書いたのは、労働政策研究・研修機構の紹介ページにある1990年のデータ「スポーツ関係:24.5%、文化、観光、娯楽:23%、衛生・福祉関係:16.5%、社会生活:9.5%、住まいや環境:9.5%、教育・訓練:8.5%、企業へのサービス:8.5%」をぎりぎりに圧縮したもので、私の感覚で、娯楽を文化へ、紹介生活・住まいや環境を「福祉」に繰り込んでいる。煩雑になるのを恐れずに、この機会に、上のようなデータを引用しておく。

私の中では地域におけるアソシエーションの活動の中で文化と教育の区別があまりしていない。たとえば、インターネット・カフェ、小学生の美術館めぐりはどっちがどっちなのだろうか。両方とも文化に関わると言えるし、それぞれ成人教育、activité (para)scolaire とも言える。ヴィルパン首相のあげた「住居&教育」が、それだけに限る排他的なものか、それとも例なのかはこれからの補助金の下り方の指針を見てみないと分からないが、少なくとも多くの、文化アソシエーションがこれを利用して息を吹き返すために一定の期待はするだろう。モンフェラン大使のページに載せられた説明では、分野を明示せず、「恵まれない地域で活動して、社会的な連帯と絆を取り戻そうと努力している地域団体を支援する。」となっている。

「住居支援」に関して、antiECO さんは、住居の管理・整備という点に集中して例を挙げているが、実は私がこのことばで思い浮かぶのは、生活にふさわしい住居が社会的排除や経済的問題のため見つからない人々に対する支援だったので、やはり単語だけが喚起するイメージは人それぞれだと思った。

HLMに住めるのはいいほうで、それ以下の住環境、非住環境の人は年々増えている。
http://www.secours-catholique.asso.fr/v3/une/une_alaune_713.htm

*1:それより前の段階の中間発表として、司法省発表の14日のものがあるが、これも私が14日に記事をアップした時点では利用できなかった。