フランスを覆う無力感

「無力」という語の流行
«La montée du mot "impuissance"»

Libération : samedi 31 décembre 2005

par Nicole PENICAUT
2005年よさようなら。記号学者のマリエット・ダリグランが2005年に政治のことばを支配した語を分析する。
Adieu 2005. Mariette Darrigrand, sémiologue, analyse les termes qui ont dominé le discours politique en 2005.

年末年始に読んだ新聞記事の中でもっとも印象に残ったもの。猫屋さんが報告しているグラン・パレのメランコリー展と微妙にかぶっている。また、メランコリー礼賛に警戒を示すナンシー・ヒューストンの記事が掲載されたのは同じリベラシオンの翌日の号(また、このナンシー・ヒューストンの記事は、ピエール・アスリンがブログで同日にとりあて紹介している)。

詳しい感想を書く余裕があるかどうかわからないがとりあえず翻訳。細かいところをつつけばいくらでも議論の余地があるが、フランスを覆う空気を適確に診断していると思う。なにより自分をふりかえってみて、私自身がこの数年間のこの大きな流れに捕らえられているような気がしている。ここからいかに抜け出し、距離を置くかが本年の個人的課題。欲望の称揚もその手段かも(と昨日思った)。無力、無力感と訳した impuissance は、性的な含意を考慮にいれれば「不能、インポテンツ」でもある。

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無力。この語が政治家たちによってこれほど用いられたことは、この数ヶ月をおいてかつてなかったと、[...]記号学者のマリエット・ダリグランと指摘する。のべつまくなし使われるこの語は、あたりを漂う「メランコリー」の気配と無関係ではない、と。

こうしたフランスのメランコリーの理由はなにか?

その前にまず、なぜ、社会に対する視点が心理学的なものになっいるのかを理解してみなければならない。今日、社会的なものの観察者は皆、社会を一個の人間のように見なしている。あるときには、その青年期の危機を、あるときには、その老化を描写してみせる。そしてまたあるときにはそのメランコリーを。しかし、これは観察を、現実にではなく知覚に基づかせるものである。知的な思考が哲学者や、社会学者、政治家によってではなく、心理学者だけによって担われているということだ。政治家とうものは知的な思考を糧にする必要がある。が、現実を扱う道具をみつけれない彼らは、もはや現実を語るのではなく、知覚を語るような材料を用いている。そして自らの政策が支持されないと感じるや、その政策が向けられた人々に罪責感を与えようとする。診断を相手に向けながら。

政治家たちもメランコリーにとらわれているか?

自らへの疑いを他人に投影しようとするのは昔からの典型的な行動だ。他人の「不幸感 mal-etre」について語るのは、しばしば、自己の投影である。今年私が驚いたのは、政治のことばの中に「無力」という語が盛んに使われるようになったことだ。われわれは、まるで、行動する手段をもった人々すべてが無力になってしまった社会に生きているとでも言うかのように。それこそまさに鬱病の症状そのものだ。鬱病患者は横たわったままになり、現実に対して行動するのを止める。そしてこのメランコリー、診断すれば、これは鬱病だ。

それはいつはじまったのか?

2002年4月21日は「政治的激震」と言われた。2003年の猛暑は「カタストロフィー」と。政治的な出来事を「自然災害 catastrophe naturelle」にしたてあげるとき、人はそこに宿命主義、無力感を作り出す。今年になって、ロンドンのテロ事件は、テロに対する西洋諸国の無力を表現するものになった。そして欧州憲法国民投票EUはその無力のかどで拒否された。8月末にアフリカ人たちの家族の住むホテルが火事になったとき、ここでも無力の観念が口にされた。常軌を逸したことだ。なぜならこうした状況は対策の不在の積み重ねによって引き起こされたものだからだ。そしてウトローの裁判があり、これは「司法のカタスタトロフィー catastrophe judiciaire」と表現された。まるで意志のない何物かの力の生み出したものであるかのように。司法の誤りは、いくつもの決定の結果にほかならないのに。そして最後には、バンリュウの危機だ。そしてここでもまた、両親の無力、教師の、市長の無力が語られた。「無力」という語が、政治のことばの中で、いたるところに現われてきた。しかし、本来は、政治家が引き合いに出すのは、潜在的可能性 (できるできない)puissance の問題ではなく、権力 (行使できる力)pouvoir の問題であるはずだ。こうした心理的な思考回路に屈服したときのいやな問題は、こうした思考が、潜在的可能性をもったように見える人間に、活躍の場を与えることだ。ル・ペンや、そしてもちろんサルコジのような、自分だけが唯一行動する力を持っているとして自らを売り込んでいる人のこと考えて言っているわけだが。これはゆゆしきことだ。皆が無力であるなら、人々は救い主を求めることになる。

無力感にともなって、犠牲者化があらわれているか?

まさにそのとおりだ。たとえば、「工場移転の犠牲者」について語るとき、そこあるのは、現実を描写することへの怠慢だ。そこでまた宿命主義に囚われている。そうした人々は犠牲者ではない。それは雇用を失った人々だ。犠牲者という概念からは社会的な側面が抜け落ちている。「犠牲者」の真の意味は宗教的なものだ。それは神聖な姿をまとい、物質的なものから引き離されている。そしてそれはきわめて人の心を惹く。しかし心理的な苦しみ語れば語るほど、苦しみの物質的な条件について人は語らなくなる。ますます多くの人が「心のレストラン」[慈善事業団体]の世話になっていることについて、生計の手段のなくなった老人たちについて語らなくなる。ここでもまた、現実を迂回するのだ。

メランコリーはフランス的な病か?

フランスには、苦悩への愛に結びついたメランコリーへの愛というものがある。メランコリーを、天才の印−−ジェラール・ド・ネルヴァルからミシェル・ウルベックにいたるまで−−とする肯定的な見方がある。これはわれわれの歴史、苦悩礼賛的なフランスのロマン主義に強く結びついている。自分の苦難の体験やそこから立ち直った話を語らない有名人は一人としていない。メランコリーは破滅へのロマンチックな誘惑だ。

隣りの国々ではどうか?

ヨーロッパ人のすべてが物質的なもの以外の目的の探求に悩んでいる。しかし、このメランコリーから逃れているところが2つある。まずスペイン。この国は民主主義の遅れを取り戻そうとしいるからだ。そしてドイツ。ドイツの経済問題は苦悩をより現実的なものにしているからだ。そしてそこには、ポール・リクールが「嘆きの思考」と呼んだものを拒否しようという、進歩主義的で実際的(積極的・実証的) positif な知的思考の刷新がある。ドイツの哲学者たちは現実に取り組むことを受け入れている。

フランスではそうでないのか?

現実が十分に考えられていない。とくに経済的な側面で。政治家は新自由主義を批判する経済的思考を解釈しうる手段をみつけなければならない。それは困難な作業であり、Attacだけがそれを占有してはならない。現実を考えることはメランコリーの歩みを止めるきっかけになりうる。真の問題は、恐怖であり、あらゆる面における安全の欠如(治安の不在、不安定感) insécurité だ。なぜならわれわれの社会は変化の過程にあるからだ。安全(感)の欠如は人々に極端な解決法を求めさせ、期待を過度のものにする。今日人々が耳を傾けているのは過激な提案だけだ。右では、過激なポピュリズム−−「秩序を回復しよう、そうすればうまくいく」。極左では、「EUはわれわれの仕事を奪う、だからEUにノンだ!」

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