大学をめぐるいくつかの引用。

12月14日のエントリー「フランスの大学の学内選挙−−学長・評議員はどう選ばれるか 」に、id:chorolynさんと、id:dcsy さんからトラックバックをいただいた。

chorolyn さんからは、その『安田講堂』(島泰三著)読書記に対する「婉曲的?応答と思って読みました」という指摘をもらった。いつか書きたいとしばらく前から思っていた記事ではあるが、それを一挙にまとめるきっかけに、この読書記がなったのは確かである。婉曲的と読める向こうにあるものについては、記事の最後に付け足そうと思いながら、そのままになってしまった。

dcsy さん の記事から「早稲田大学ビラ巻き逮捕事件」というのを知った。

この事件の積極的関与者に大学教員(それも複数?)がいるというのもまだ信じられないが、関連ブログを見ていろいろ考えさせられるところがあった。スローブログモードで、論を組み立てる余裕はないが、手元にある日本語の本から、問題にゆるやかに関連しないでもない、いくつかの大学をめぐるエピソードを、これを機会に引用することにする。

昭和は遠くなりにけり

昭和27年2月、東大構内において大学公認の学生劇団「ポポロ」が、大学の許可を受けて演劇公演をおこなっていたところ、会場に警官4人が私服で潜入しているのを発見し、3人をつかまえ糾弾し謝罪文を書かせた。そのさい、洋服のポケットから警察手帳を取り上げたところ、その手帳には、25年夏頃より連日のように大学構内に立ち入り、張込み・尾行・盗聴などの方法によって、学生・教職員・学生団体などの動向・活動に関する情報収集をおこなっていた事実が詳細に書かれていた。この事件について、警察手帳を取り上げるさいに暴行があったとして数人の学生が「暴力行為等処罰ニ関スル法律」1条1項違反で起訴されたので、学問の自由・大学の自治と警察権の関係が問題となった。

第1審の東京地方裁判所判決は、まず、学問の自由は社会的・国家的に最大の尊重を払わなければならない貴重な価値であり、その制度的ないし情況的保障が大学の自治であるとする。そして、警察が警備の必要という一方的判断で学内活動を監視するもとではその価値は侵害されるから、警察は無制限に構内で活動することを大学は拒否でき、大学内の秩序維持は原則として第1次的には大学の責任とその自律的措置にまかせられなければならないとした。同時にこの判決は、守られるべきは学生・教員の学問的活動一般であるとして、学生を自治の主体としてみとめるとともに、学問的活動と政治的・社会的活動は画然と区別できないと指摘した。こうして、学生の一見暴力的行為は、貴重な価値を警官の違法な警備活動から守るための正当行為としてその違法性が阻却されることになり、無罪とされた(東京地判決29・5・11 刑集17巻4号428頁)。

第2審の東京高等裁判所も、ほぼ同じ理由で原審判決を支持した(東京高判昭31・5・8判時77号5頁)。

最高裁判所判決は、これらとはまったく逆に、学生の集会が政治的・社会的活動にあたる場合には、大学に保障される特別の学問の自由と自治を有しないとして破棄差戻の判決を行った(最判(大法廷)昭38・5・22刑集17巻4号379頁)。
...
差し戻し後、結局被告人の有罪が確定した。

奥平康弘他編『テキストブック憲法』(有斐閣、1977)、p.131-132。

法律の専門家にとっては常識的で、中に立ち入るといろいろややこしい話はあるだろうが、基本的な事実関係についての手ごろなまとめがネットで見つからなかったので、学生時代に読んだ一般教養の教科書から引き写してみる。

中世ボローニャ−−タウンとガウン

中世都市にとってみれば、大学を持つことで文化的威信がもたらされるだけでなく、多数の外国人学生がその町に流入することによって、直接には都市経済そのものが活発になり、間接にはアルプス以北との交易を確立するチャンスが増大するというメリットがあった。しかし、それと同時に、外国人学生によって町の秩序と治安が脅かされるというデメリットも生じた。そこで、都市は外国人学生を都市裁判権の下において秩序と治安を維持しようとしていた。ところが外国人学生は、異国の都市の裁判権に従うよりも自分たちの教師の裁判を、あるいは聖職者学生であれば教会裁判を選ぼうとした。いわば、属地法の立場を主張する都市と属人法を主張する外国人学生の対立である。都市(タウン)と大学(ガウン)の対立は、そのほとんどが基本的にこの裁判権をめぐる対立であったと言っても過言ではない。

グイド・ザッカリーニ『中世イタリアの大学生活』(児玉善仁訳。平凡社、1990)への訳者による「まえがき」、p. 19。

「タウンとガウン」の典型的記述。

大正期日本版タウンとガウン

私が浦和高校に行ったのは大正十一年創設と同時でした。...五高で体験した反骨反俗の空気もちゃんとあった。寮生が浦和警察をとり巻いて、寮からたき出しをして気勢をあげ、吉岡[郷甫]校長が堂々と県へ申し込んで、結局浦高生に処罰はなく、かえって署長が左遷されたり、女学校の校長が浦高が出来て土地の風儀が悪くなったといったので、生徒代表が女学校を尋ねて校長を謝罪させるとかしたものです。

高木市之助『国文学五十年』(岩波書店、1967)、p. 110

『吉野の鮎』で有名な国文学者の高木市之助が、1922年、三十代半ばで教師として赴任していった旧制高校の思い出。この本には寮生と警察の対立のきっかけについては触れられていないが、戦前の旧制高校・大学について書かれたものには、スト・校長排斥運動・警察との対決といったエピソードはよく出てくる。言うまでもないが、高木市之助も特に「左翼的」な学者というわけではない。

中世ボローニャ・続−−教師は辛いよ

当時、教師と学生の基本関係は、個々の教師と学生との間で教授期間や授業料を厳密に定めた契約が結ばれることによって成立する関係であった。初期にあっては、この契約関係を前提としながらも、学生と教師が、教師の住居などでともに生活した家族的集団(ソキエタス)が成立したために、きわめて親密な雰囲気が生まれていた。...ところが、別々の教師の学校で学んでいた学生たちが大学団という横断的な組識をつくり始めると、個々の教師の学校における家族的集団は、当然のことながら弱体化していったと考えられる。学生たちが家族的共同体よりも大学団という利益共同体の原理に従って行動するようになったからである。こうして学生と教師の関係は、家族的関係が薄らいで、基本的な契約関係に戻ってしまうことになったようである。そのような関係に戻ると、もともと学生たちのほうが授業料を払うという契約上の優越的立場にあったから、両者の間には大学団という団体の力を背景に学生が教師を従属させるという新しい関係が成立した。実際に大学団の規約には、授業をさぼった教師にはいくらいくらの罰金を課すといった教師への統制が細かに定められていたし、そもそも授業をさせる教師の選出をおこなったのは大学団の学生たちであったのである。

グイド・ザッカリーニ、前掲書の訳者の児玉善仁によるまえがき、pp.14-15。

大学でいちばん権力を持っている、現在の「学長」にあたる「学頭 レクトール」は、学生組合である大学団の長などという話も。教師側はこれに対して学位授与権で対抗。

あるフランス人中世研究者の考え

中世に存在した何かを復元しなければならないとしたら、それは、大学の野心、大学の典礼、大学の独立、大学のしきたりである。大学の自由を復元し、大学に、普遍への開放、筋の通った議論、偽物の威信や本物の権力の批判といったその当初の使命を返してやらねばならない。ヨーロッパ文化を、その最初の実験室に連れ戻すことによって孤立からすくいだしてやらねばならない。その実験室では、大学、いいかえれば教師と学生の全体が、文化変容を「引き受けて」いたのである。ヨーロッパが、共同体的生という形で、自分で招いた危機を生き直すことができなければ、ヨーロッパの未来は今後もありえないだろう。
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もしフランス人の八十パーセントが大学入学資格を持っていることが必要だとしたら、それは運のいい若者たちやペテン師たちを行政的に増加させるためではなく、全世代の人々を、自分たちに課された避けることのできない使命、すなわち経済至上主義に蝕まれた社会のスローガンや模範からの、まず内面的な、ついで外面的な自己解放にまで導くためである。中世の大学はキリスト教の機関であった。しかしそれはまた、そしてとりわけ、三年越しのストライキをやってのけ、とうとう、ブランシュ・ド・カスティーユのような摂政やルイ九世のような王を屈服させることができた自治をもった機関だったのである。
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フランスの大学は大学の自治機能について再考し、真の統合力としての役割を果たさなければならない。もしヨーロッパに大学が必要であるとするなら、フランスの大学は新たなアイディンティーを創造する場とならなければならない。...

アラン・ド・リベラ『中世知識人の肖像』(阿部一智・永野潤訳。新評論、1994)*1

「80%が大学入学資格を持っていることが必要だとしたら」云々は、原著が出版された1991年当時のフランスの社会党政権、とくにジョスパン教育相の提唱する教育政策目標を受けたもの。

やはり「控えめ」なまとめ

大学を教職員と学生で作る一つの集団と考えると、自らが支配する物理的・象徴的空間から、その利益を脅かそうしているとみなされる「外部」の者を排除し、それによって自らの権力を物理的にも象徴的にも防御するという性向は、大学の誕生した中世以来当然にある。1952年の東京大学の例と今度の早稲田大学の例は、その防御行為の発動という点では共通している。しかし、「大学」の名において行動するものはだれか、「大学」がひとつの利益集団として結束しているか否か、何の名において誰に対していかなる価値観を守るための行動なのかという点については、まさにあべこべとなっている。これが日本の現代史の歩みなのだろうか。

他の権力から独立した特権を求める利益集団としての大学が、現代社会の価値観の中で、やくざの組識や宗教的セクトと違う地位を持つのは、言論の回路で公的に開かれていうことに多くを負っているはずだ。市民がそれに税金を投入したり、それが公共圏 espace public において知的威信を有していることの根拠は、その組識の公共圏への開放性、さらに言えば、内部および外部の批判とのリアクションの中で存在しながらそれ自身が一つの公共圏として機能していることにあり、その組識がそうした働きをやめることは自殺行為ではなかろうか。

系統的に勉強したわけではないので、おおざっぱな印象だが、1968年において大学の自治の度合いというのは、日本でもフランスでもそれほど変わらなかったのではないか。が、2005年のフランスの大学は、経済的にほぼ全面的に国に依存したものでありながら、国家権力からの干渉の排除、学生を含めた学内民主主義という面では1968年よりもいくばくかのものを獲得している(昨年12月14日のエントリーで紹介した学内選挙のありかたもその一つだ)。これは自治的な大学伝統の保存というより、おそらくは伝統の再獲得だった。そこに、マスに開かれた大学と自治的な「中世の大学」両者のポジティヴな価値を両立させようという努力があることは、上のリベラの文章に典型的に読み取れる*2

現在の日本とフランスを分けるものは何か。それは、「68年」(日本流にいえば全共闘運動)のアクターたちが、権力機構やアカデミズムにどのように入っていったか・入らなかったか、入ってからどのように振る舞ったかが、両国で対照的といえるほど異なることにあるように思える。当時日本の大学で物理的暴力に直面してぎりぎりの選択として警察を導入した教師たちを情熱的に批判した人々が一定の割合で大学やアカデミズム、言論界の中にいる今、それよりはるかに後退したことが行われているのはどうしたことかと何度も思う。

*1:この度何年ぶりかに再読しながら、訳者の一人が猿虎先生(id:sarutoraさん)ということに気づく。はてなでおとなりさんになる前に、10年以上前からお世話になっていました。

*2:博士論文を書く学生とその指導教授に対し、両者の義務、権利関係を定めた一種の契約 Charte de thèse を交すことが1990年代の終りに義務づけられるようになった(ところで守られているのだろうか?)のも、その源泉は、上のボローニャ大学の話に出てくるような「契約」に求められるのかもしれない。