ジジェク@ユマニテ

ジジェクの1月4日づけユマニテ紙でのインタビュー

スラヴォイ・ジジェク−−資本主義の論理は自由の制限を導く
Slavoj Zizek : « La logique du capitalisme conduit à la limitation des libertés »

L'Humanité : Article paru dans l'édition du 4 janvier 2006


ジジェクについての最初の短い紹介文を省いて、インタビューの内容を訳します。


−−−−−−−−

あなたは、フランスの欧州憲についての国民投票の結果は有意義なものであり、それは、「われわれに、その専門的知識を追認する可能性のみを与える新しエリート階級」の脅迫に対抗して「そもそも選択するという選択肢がある」ことを表明したことにあると評価しているわけだが、どんなふうにして、EUの政策は、選択を人から奪う装置になってしまったのだろうか。

ジジェクあらゆる他の選択肢を押さえつける圧力は、いわゆるポストイデオロギー的空間の中では、信じられないくらい強力だ。「イデオロギーは存在しない」という至高のイデオロギーがあると考えることができる。すなわち「現代資本主義のルール以外の他の選択肢はない」というわけだ。こうなると人が意見を述べることが許される問題というのは、寛容とか多文化主義に関するものだけということになる。現代の世界においては、あたかも唯一の大きな選択−−極度に自由主義的な米国的資本主義かさもなくば中国的資本主義かの選択しかないということになる。真の選択がこんなふううな選択肢しか持ち得ないような世界に住まなければならないとしたらまことに悲しいことだ。


欧州はいかにすれば、米国モデルあるいは中国モデルに対抗してあなたが期待する別の選択肢を持つ政治空間となりうるのだろうか。第三世界は、「アメリカンドリームのイデオロギー」に抗う力を持ち得ないとあなたはいうわけだが。

ジジェク私はどちらかというと悲観的なわけだが、つまり米国と第三世界の間には一種の共犯関係がある。この二つの極の間には補完的な関係がある。新しい秩序について、問題なのは、第三世界ではなく、第二世界、すなわちヨーロッパだ。第三世界には潜在的力はそんなにはない。実際の社会的構造のためだ。搾取や貧困がそこでは剥き出しすぎる。私はそこに望みは見えない。かつてマルクスが賢明にも述べたように −− 真に貧しいもの力とともに革命ができるとは残念ながら思えない。


とするなら、政治的レベルでにおいて、一種の世界資本主義とリベラルデモクラシーからの脱却はどのように実現されるだろうか。

ジジェク「ヨーロッパ的社会福祉モデル」とか「連帯」とかいうような大スローガンに単に頼ることはできないと思う。米国には原始的なリベラリズムがあり、一方、ヨーロッパには社会福祉国家がある...というような旗印で。事はそんな単純ではない。フランスのバンリュウ暴動のような最近の危機は、警報のように鳴り響いている。ニューオリンズカトリーナハリケーン後の暴動に対するヨーロッパの傲慢な態度への最初のリアクションとして。こうした暴力の爆発は、私は思うに、現代資本主義の一般的兆候である。これまでの解答、つまり社会政策の充実、連帯の拡充を唱えることでは、もはや十分ではない。いろいろな悪の根はもっと深い。


そうした根とは?

ジジェク問題になっているのは現代資本主義のロジックのすべてだ。ひとつの例をあげよう。現代の特徴的な世界的現象が一つあるとすれば、それはスラムだ。都市社会学者マイク・デイヴィス Mike Davis*1が強調しているように、中国やシンガポール、韓国の経済的成功に関して、スラムの爆発的増大という問題が隠されようとする傾向がある。種々の推計によれば、世界じゅうで10億人以上の人間が今日スラムに住んでいる。その住民は世界的規模でいうと最も主要な社会集団になろうとしているのだ。というと人はすぐに、ブラジルの貧民街を思い浮かべるが、問題はそれだけではない。最大のスラム地域はアフリカ中央部、ラゴスからコートジヴォワールの間にあり、そこでは7000万に人がスラムに住んでいる。その住民はアガンベンの言う「ホモ・サケル*2に似る。公民圏から排除されていながら、闇労働や闇商取り引きによって、経済には多少なりとも統合されることで...マルクスのことばを使うなら、原初的−革命の新しいプロレタリアートということになるかもしれない。そこには、伝統によるべを持たない、そして、自らの社会的空間を秩序づけるための価値序列を先祖から受け継ぐことのなかったさまざまな巨大な集団、おびただしい群集がいる。彼らこそが真に排除された者だ。国家の目的はもはや彼らを管理することにさえなく、単に隔離することにある。こうした新しいアパルトヘイトの論理がわれわれの社会をとらえつつある。こうした現象はもはや、マルクスのいう意味での「階級」としてとらえることはたぶんできない。が、3つの大きなグループを区別することはできる。まず一方に、普遍的象徴体系所有者としての新しい階級 la nouvelle classe symbolique universelle がある。マネージャー、ジャーナリスト、教授、専門家たちの階級だ。彼らは、世界的な新しい階級に属しており、その中では、個々人は、自分が住む場所の「普通の人々」よりも、地球の向こう側の同僚たちと強い結びつきを持っている。文化的に言うと、彼らは独自の独立した社会を形成している。階梯の一番下に、排除された者たち、バンリュウの貧しい者たちがいる。その間に、中間階級、つまり労働者たちの階級がある。それはほとんど絶滅の道を歩んでいる階級であり、彼らの間に見られる「伝統主義的」感性はそこから来ている。


フランスの暴動に話を戻せば、あなたはそれを68年五月革命と比較している。あなたが言うように「ユートピアの夢」であった1968年と違って、このばあいには、綱領も、イデオロギーも、ユートピアの夢もない。それは「ポスト・ポリティック」的な爆発だろうか。

ジジェクそう、「ポスト・ポリティック」だ。というのもこの暴動はわれわれのポスト・ポリティック社会のまさに裏返しのものだからだ。人々がポスト・ポリティックのカードを使うとき、暴動はそれそのものがポスト・ポリティックのものとなった。ここにまさに真の悲劇がある。それは別の選択を定式可することさえ不可能性であることの代償である。


共産主義の失敗と崩壊が、別の選択の可能性を不毛にしていることに寄与していると考えるか。この可能性は決定的に遠いものとなったか。

ジジェクわれわれはこうした別の選択を考えることが不可能な状況にある。しかしまた、われわれは爆発に近いところにいるとも私は思う。レーニンにおいてすでに、真のユートピアは緊急の観念と結びついていた。ほかにやりようがないと思った瞬間に人はユートピストとなる。その意味でいえば、われわれはますますユートピアを考えることを余儀なくされていくだろうと私は思う。十月革命の前そして直後のレーニンユートピア的契機は、完全に絶望的な状況の生んだものだった。こうしたリアクションは、現実主義的な諸選択の幅のもつ領域は、支配的なイデオロギーに合致した意味での「現実的」であるわけではないという事実に関係している。今、何を成しうるか。資本主義的イデオロギーの覇権の強大さは、左翼をさえ、文化や寛容の問題に向かわせるほどだ。つまり、具体的な経済上の別の選択を想像することさえできないとこへ左翼を至らせている。そうして、アメリカの多文化主義的左翼のすべてが、メキシコ人や黒人の搾取は、階級関係にではなく、人種差別に基盤を持つのだという理論を採用している。


あなたは、複数の著作で、2001年9月11日以来保たれている世界の恒久的非常事態と、それを根拠とした自由の制限について警告を発している。

ジジェクこの非常事態は通常の状態と対立するものと考えられていない。一種の収斂がある。未来に待っているのは、直接的な独裁者ではなく、例外的状態が通常の状態と一致するようなルールの変更だ。これと並行して、今や、経済へのいかなる強い介入も不合理で破局をもたらすものととらえられるようになる。経済は脱政治化した無縁の固有の法則を持ち、「民主主義的」討論は文化の問題に限られるとでも言うような決まりがごとができている。悲劇はまさに、こうした経済の脱政治化と、恒久的非常事態への徐々の地滑りの組み合わせの中にある。


あなたは、ネオリベラリズムへのこの内在的進行は、国家の強大化に表れていると指摘している。

ジジェク新しい型の社会的排除アパルトヘイトは、犠牲者化の支配的イデオロギーと対をなしている。今日のリベラリズムの代表的な哲学者であるリチャード・ローティ Richard Rorty は、最終的に人間の尊厳を決定するのは、知性や創造力ではなく、苦しむ能力、犠牲者となり、痛みを堪え忍ぶ能力にあると強調している。犠牲者化をこのように根本的な存在様式と認定するなら、問題は、もはや「いかに対処するか」ではなく、「いかに国家は痛みを予告しなければならないか」ということになる。国家の役割は減少しているという先入観に私が反対するのはこうした理由からだ。確かに国家は社会的領域から身を引いている。しかし、ポスト9.11の合衆国を見るならば、人類の歴史の中で、これほど強大な国家はなかった。国家は、このシステムの中で、絶対の決定的な役割を果たしている。軍事予算と管理の面に置いて。最も剥き出しのリベラリズムでさえますます強い国家を要求している。現実にわれわれが立ち会っているのは、国家のあらゆる装置の爆発的強大化だ。新保守主義の現代の国家は極端に強い国家だ。


二極化の世界にあっては、資本主義は「自由世界のショーウィンドウ」として自己宣伝し、そうした自由の約束によって魅力のあるものとなっていた。われわれは、平等を否定するだけでなく自由も砕きつぶしてしまうような資本主義へと向かっているのだろうか。

ジジェクマルクスの資本主義批判は内在的なものだった。彼は、自由な領域を生み出した資本主義が、最終的にはその自由を保障しないというという事実を分析した。今後、資本主義に内在するこの論理が自由を制限するほうへ自らを導くだろう。共産主義の終焉、そればかりでなく社会民主主義の終焉によって、消えていくのは、集団的行動によって歴史を変えることが可能だという考えだ。われわれは「宿命の支配する社会 société du destin」へと戻ってしまった。ここではグローバリゼーションが宿命とされる。それを拒否することはできようが、しかしそれを待つ代償は、排除だ。人類が集団的な約束によって生を変えられるのだという考えそのものが、潜在的全体主義的なものとして非難される。「新しい強制収容所を作るつもりか!」という批判を受ける。私はといえば、綱領も、政策も、単純な「解決」も持たない。左翼はそれ独自の責任を持っている。哲学者として、私の倫理的・政治的義務は、解答を与えることにではなく、神秘化された問題を新しく定義しなおすこと、そして、アラン・バディウ Alain Badiou が「問題の現われる場所 site événementiel」と呼んだところのものを見つけることにある。それは、なんらかの可能性があるところ、何かがあらわれてくるための潜在的可能性のある場所だ。その意味では、私はヨーロッパに対しいかなるユートピア観も抱いていない。同じ一つのシステムの二つの面を象徴する合衆国と中国のつくる軸の外に位置しようという意欲がヨーロッパにはあるにしても。


トニ・ネグリマイケル・ハートが『帝国』−−あなたはそれを「マルクス以前」の著作と呼ぶ−−の中で提唱するグローバル資本主義の分析に対するあなたの批判の根拠は何か。

ジジェクハートとネグリは袋小路にはまっている。一方で中央集権化する帝国があるとしながら、もう一方ではマルチチュードが可能とするのだ。しかし−−単純化して言うなら−−彼らは現代の資本主義がすでにマルチチュードのモードで、網目状に機能しているということを認めなければならない。分権化し、多元的で、ノマド的なマルチチュードの新しい運動を表現するために彼らが使う用語のすべては現代資本主義の機能に適用することができる。ネグリが現代の資本主義の最新の発展の中に共産主義の萌芽を見るところへとすべり外れていったのは、そのことの無縁でないと私は考える。そうなると資本主義と闘うことが問題なのではなく、逆に協力すること、その活力に貢献して何が悪いということになってくる。ネグリには今や一種の資本主義礼賛が見られる。


『ヨーロッパが求めるもの Que veut l'Europe』においてあなたは、「ポピュリスト的右翼と極右には、リベラル・デモクラシーの覇権を正統化するために、選択のみせかけを与えるだけの二極的政治体制のまわりにコンセンサスを構造化し、左翼の他のいっさいの選択肢を排除する役割がある」と分析している...

ジジェク私が思うに、極右が力を得ている原因の一つは、左翼が今や直接に労働者階級に自らの参照点を置くことに消極的になっていることにある。左翼は自らを労働者階級として語ることにほとんど恥を抱いており、極右が民衆の側にあると主張することを許している!左翼がそれをするときは、民族的な参照点を用いることで自らを正当化する必要性を感じているようだ。「貧困に悩むメキシコ人」とか「移民」云々で。極右は特別のそして結束力のある役割を演じている。「民主主義者たち」の大部分の反応は見るとよい。彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラルは、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。こうした右翼は、ル・ペンを必要としている。みっともない行き過ぎに対し距離をとることで自らを穏健派と見せるために。私が、2002年[大統領選挙]の第2回投票の際の対ルペン連帯について不愉快に思ったのは、それが理由だ。そしていまや少しでも左に位置しようとすると、すぐさま極右を利用しようとしていると非難される。それが示しているのは、ポスト・ポリティックの中道リベラルが極右の幽霊を利用し、その想像上の危険を公的な敵に仕立て上げようとしていることだ。偽りの政治対立の格好の例がここにあると私は思う。


インタヴュアー:ロザ・ムサウィ Rosa Moussaoui

−−−−−−−−

うーん...訳しておいて言うのもなんだが半分くらいしか感心しなかった。欧州憲法国民投票後のジジェクの記事については前に批判的にとりあげたことがあるが、そのときの違和感がまだ尾を引いている。「スロー」なので総括はパス。

訳について「はてなポイント制」がモチヴェーションになるのではないかという意見もあり、もちろんポイントというのはもらえば何にせようれしいものだが、個人的には、それよりも、記事を読んだときの一行コメント以上のものがあること(もちろん一行でもうれしいが)、その記事から内容のある討論が起きることが、最大のモチヴェーションとなる(すなわち「ポストモダン」的テキスト消費のブラックホールに労力を吸い取られたと感じる以上の実感)。

それと、みなさんフランス語を勉強しましょう。いろいろいいことがあります。

*1:原注 Mike Davis, Planète Bidonvilles, Ab Iraten, 2005.

*2:原注 Giorgio Agamben, Homo sacer, Seuil, 1997.