「競争が自由で歪められることのない域内市場」

これのイントロは ↓id:fenestrae:20050604#TCEDepartAuTour

欧州憲法条約の第1部*1の第1条(I-1)から第8条(I-8)までは、第2編「連合の定義と目的」とグルーピングされている*2。第3条が「連合の目的」となっていて、その中が5項に別れているが、その第2項に、この憲法で、フランスの国民投票論争において、たぶん最も有名となった表現がある。全体の中の文脈の中で引用してみる。ボールドになっているのがその部分。

Article I-3 Les objectifs de l'Union
1. L'Union a pour but de promouvoir la paix, ses valeurs et le bien-être de ses peuples.
2. L'Union offre à ses citoyens un espace de liberté, de sécurité et de justice sans frontières intérieures, et un marché intérieur où la concurrence est libre et non faussée.
3. ...
http://europa.eu.int/constitution/fr/ptoc2_fr.htm

英語版だと、

Article I-3 The Union's objectives
1. The Union's aim is to promote peace, its values and the well-being of its peoples.
2. The Union shall offer its citizens an area of freedom, security and justice without internal frontiers, and an internal market where competition is free and undistorted.
3. ...
http://europa.eu.int/constitution/en/ptoc2_en.htm

試訳

1.連合の目的は、平和、連合の価値基準、およびその諸国民の幸福を促進することにある。
2.連合はその市民に、内部の国境のない、自由と安全と正義(司法)の領域を与え、また、競争が自由で歪められることのない域内市場を与えるものとする。
3. ...

第1項で触れられている連合の「価値基準(valeurs / values)」は、マーストリヒト条約では「原則 principes / principals」と普通にはよばれていたもので、その価値基準の中身は直前の第2条で列挙されている(人間の尊厳、自由、民主主義、平等、法治国家、諸人権etc)。

さて、問題は次の第2項で、EUがその市民に提供するものがおおよそ2つあり、a)国境に関係なく自由・安全・法にもとづく正義を享受できるヨーロッパという政治的テリトリーに並ぶ、もう一つの柱が、b)域内統一市場、そしてそこでは競争が自由で歪められないという。non faussée, undistortedは、競争との関連でいえば、「公正な」(公正取引委員会の「公正」)くらいが座りがいいが、フランス人が読んだときの語感を共有するために直訳としておく。

この「競争が自由で歪められることのない域内市場 un marché intérieur où la concurrence est libre et non faussée」のくだりが、まず、大論争の的になった。

Google Search Keywords ("marché intérieur" concurrence "libre et non faussée")

具体的には、まずここに、多くの人が、フランスでの公共サービスの維持への脅威を見た。実際にテレコム市場が開放され、France Telecomが民営化されたのは、このセクターで公正な自由競争を疎外してはならないとのEUの政策の線に沿ったものである。そしてこの「自由で歪められない競争」を原則とする欧州レベルでの市場解放の波は国の独占だった電気におよび、そしてこの先、郵便、鉄道、最後は教育にまで及ぶのではないかという危惧が生まれている。公営サービスについては、さらに先の第3部でいろいろ細かく決められており、ウィ派は、逆に、フランスの提案によって、この憲法の中ではじめて各国の公益事業の維持の最低線がEUレベルで認められるようになった主張し、ノン派は、条文の多くが、上記第3条2項の具体的な実現として、自由競争の名のもとに、国の公益事業政策を縛るためのものになっているとして、反論した。

が、そもそもこの「自由で歪められない経済競争市場の欧州」は、現在のEU条約も、「域内市場においては競争が歪められないことを保証する体制 un régime assurant que la concurrence n'est pas faussée dans le marché intérieur」として入っており、適用のレベルは別として、EU経済が機能する大原則ですらある。たとえば、最近もまた話題なったようなMicrosoftののWindowsの売り方を不法だとするEUの決定(id:temjinus:20050531)も、この自由競争の原理にもとづくものだ。だれもがその自由競争経済市場の利益をなんらかの形で受けている。実をいうと、公共事業の民営化の弊害や危険性が議論になる際、私はよく意地悪して France Telecom の名を持ち出し、独占だった時代のそのサービスに満足していたか、今も満足しているか、他の競合会社のサービスについてどう思うかと質問するが、民営化の後のFrance Telecomの投機的事業の大失敗などの話をマクロ的に持ち出す人でもない限り、まず消費者としての立場からFrance Telecomのサービスの悪口にはじまり、サービスの選択の余地が増え、料金が安くなった今のほうがいいという話に向かい、「まあ電話だけはね」ということに十中八九なる。消費者からの立場だけででなく、雇用に与えるそうした自由競争の利点はだれも否定できない。この「自由で歪められない経済競争市場の欧州」の原則そのものを否定するのは、極端な共産主義者くらいなものだ。

が、この原則をEUの経済建設の柱として容認するにしても、それの憲法の中での位置というのがまたまた議論となる。果たしてこれが、憲法の中で、他の諸価値と同等の重みを持って、宣言されるべきだろうかという批判がある。。多くの人が、第3条を見て、目的として自由・平等・博愛(連帯)の理想を訴えがないばかりか、そのかわりに「自由競争経済市場」の実現がこんなに重要な柱になっている憲法とは何事かという。実際には第2条の「連合の価値基準価値」のところに、自由・平等・博愛それらの概念は含まれており、マイノリティーの権利、多元主義に言及するなど、フランスの現在の憲法の原則よりも進んだ部分があるのだが、たしかにこの条文を見ている限りは、経済優先との印象がする。そして第3項を読んでも、その感は強められる。第3条3項は、ルーズな訳で示せば、こんな具合だ(原文は上にしめしたリンクから)。

I-3-3 連合は、均衡のとれた経済成長と価格安定に基礎づけられた持続的成長のために、また、完全雇用社会福祉の発展をめざす高い競争力を持つ社会的市場経済実現のために、また環境の質について高いレベルの保護と改善のために努力する。また科学と技術の発展を振興する。
連合は社会的疎外および差別と闘い、社会的正義と保護を促進し、男女の平等、世代間の連帯、子供の権利の保護を促進する。
連合は加盟国間の経済、社会、領土面での一致共存、相互の連帯を促進する。
連合は文化および言語のその多様性を尊重し、ヨーロッパの文化的遺産の保護と発展に努力する。

自由、平等、博愛、人権の諸要素の理想のことばの並んだ憲法や宣言に慣れているフランス人にとって、「価格安定」「高い競争力を持つ市場経済(たとえ社会的 socialの形容がついていても)」などの語は、EUの目的を定める憲法の重要な条文の中で場違いに感じるのは、本能的なものともいえる。日本人でもある程度そうではなかろうか。


そして、ここでいったんフランスの議論を離れると、こう問うてみることができる−−憲法の中のこの「経済のことば」の侵入は、はたしてEUのこれからの建設にとって、重要かつ積極的価値を持つべきものなのか、あるいは二次的価値を持つものとして周辺にやられるべき必要悪の部分なのかと。フランス人が前者を是とせず後者に傾くのは、そこに抜き難く、彼らに特有の、「ホモ・エコノミクス」を「ホモ・ポリティクス」の下におく−−俗にいえば、お金にかかわる活動を卑しいものとする−−メンタリティ、とくに知識人において顕著なそれがあるのはないかと。またそれは、同じ行為でも、「市場の中での活動」よりも「国の制度の中での公務」として遂行することをより尊いものとするフランス人一般の考えにもつながっているのではないかとも。

ほんとうのところは私にもよく分からない。しかし、この条文における「経済のことば」の重要な位置について、いろいろな国の人の間で議論があったら面白かったろうなと思う。例えばイギリス人ならどんな見方をするのか。オランダ人なら? ポーランド人は?国の統一がそもそも域内市場統一(関税同盟)からはじまったドイツの人は?

多国間の議論でなくても、それぞれの国の中でフランスのように、一つ一つの条文、語句についての、侃侃諤諤の国民的議論があったとしたら、たとえばこの第3条がどんな議論の対象となったかを通して、それぞれの国の人々がEUに抱く理想がもっとよくわかったろう。やっぱり憲法にしてはカネの話が多すぎてかっこ悪い、いやそんなのはフランス人みたいな偽善だとか、「持続的成長」は、これからの憲法の中の項目に大事だとかいやそうでないとか、「自由な市場経済」は、いやそれこそEUの基本原理だとかそうでないとか、では、「高い競争力をもつ市場」はどうか、いやこれもグローバリゼーションの中でEUの繁栄を保証するためには普遍の条件だとか、んにゃ、そんなことを皆思っているわけはない、「高い競争力をもつ市場」と心中するのはまっぴらだとか、なんとか...そんな話がひとしきり−−ただしがデマに惑わされずに−−盛り上がった後なら、あるところで外交のかけひきをまかされた「エリートたち」が力づくで決めるしかないとしても、この憲法はもっと輝いたものになったろう。

そして議論があったフランスでの問題は、なぜこの第3条2項に「競争が自由で歪められることのない域内市場」という表現が、条文の2本柱のうちのひとつとしてはいっているのか、それがこのくらい重要であることが、EUのこれからに、そしてフランス人がこれから生きる世界にどれくらい積極的な意味を持つかということ、そしてやはり、第3条全体にちりばめている経済のことばを、フランス人が持たなければいけないこれからのヴィジョンに含まれるべき積極的なものとして、ウィのリーダーが人々にわかるように説明することができず、ノンに対する防戦的な説明しかできなかったことだろうと思う。

ノンが既定事実になったとあと、もう一度ノンを再訪しながら、こうやって書いていると、ノンの人々の議論を追認するようなぐあいになっていくのは、現実への日和見的適応なのだろうか。どちらにしてもそんなところにしか、「史上最大のノン」の意味を正当化できない。ただし実際の外交的日程や各国の思惑を見れば、やはり現実の世界では「袋小路」としかいえないのだが。

*1:欧州憲法条約について以前に書いたものを採録すれば
中身は→ html http://europa.eu.int/constitution/fr/allinone_fr.htm
→ pdf一括ダウンロード http://europa.eu.int/constitution/download/print_fr.pdf
PDF版の元になったペーパー版で482ページ。定価25ユーロ。前文(préambule)と補足的な後文(Acte Final)にはさまれて4部構成になっている。前文は日本国憲法の前文とは違って、公布文のような形式的なもの。第1部がEUの定義、理念、役割、構成などをおおざっぱにまとめた部分で、日本国憲法でいう前文にあたるような部分もここに含まれるが、EUの骨組みがここで示されており、もっと実質的である。第2部は、基本権憲章(La charte des droits fondamentaux)と題される、権利章典の部分。第3部は、これが物議をかもしたが、「政策および運営(Les politiques et le fonctionnment de l'union)」と題される部分で、経済政策から農業政策、環境政策文化政策はては観光政策にいたるまで、それら政策の方針と、必要に応じてそれらの実施概則までを網羅してある。このあたりは日本国憲法のイメージで考えると、憲法というより、政策綱領みたいなものになっている。第4部は改廃や施行規則、EUの中の各組織あるいは政策に関連して必要な合意事項定を定める手続き的な部分。第1部が30ページ、第2部が13ページ、第3部が132ページ、第4部が216ページ。(←法律の専門家でもEU政策に詳しい人間でもない者による適当なまとめなので、ページ数と定価以外の解説めいた部分、訳語などは真に受けないように)。

*2:条文をあらわすときI-3 とか II-75-1 のように記すが最初のローマ数字はそれがどの「部」に属しているかを、次のアラビア数字は部に関係なく最初からの通しでつけられる条番号を、次の数字は、同じ条のなかの枝項目を指す

欧州憲法条約ノン再訪出発への前口上

欧州憲法条約批准へのノンのショックのあとの、ノン層の広がりの意味をもう一度検証するルポや分析記事が多い。次のル・モンドルポルタージュもその一つ。

「自由主義と不平等の行き過ぎ」−−多くの教員がEU憲法にノン
"Trop libérale, trop inégalitaire", la Constitution a été rejetée par de nombreux enseignants

LE MONDE | 31.05.05 | 14h08

教員層は伝統的に左派かつEU統合賛成派というのが多いが、今回はその層にノンがかなり多くみられた。私も、昨年末あたりこれは雲行きが怪しいと思いはじめたのは、このカテゴリーの属するノンが周りにあらわれてくるのを見てからである。この記事は統計をしめしていず、いろいろな当事者のインタビューによるものだが、空気がよくわかる。この層は、社会党や緑の支持者でウィからノンへ移行とした部分を典型的に代表している。

この層のノンには、ね式ブログが、「1992-2005 いかにしてウィ層は解体したか 1992-2005 : comment le oui s'est décomposé LE MONDE | 01.06.05」 を次のようにまとめる社会学的説明が与えられている。

フランス社会内で、以前あったような肯定的流動性が失われ、中間層の収入・雇用不安定化が進み、かつての社会党支持層(公共企業中間管理職や自由業・小型企業主など)の多くが今回nonに投票した

ウィの層とノンの層の関係には、高収入−低収入、高学歴−低学歴、都市−田舎という対立がはっきり現われている(詳しい統計は ipsos のものを紹介するmedia@francophonie 5月31日記事に)。これから、日本で流行の「勝ち組−負け組」というようなカリカチュラルな見方につながる恐れもあり、実際、ノンを唱えるフランス人たち自身が「下のフランス France d'en bas」の「上のフランス France d'en haut」への反乱とその運動を定義したりもしている。

ただ、1992年のマーストリヒト条約批准レファレンダムの投票行動調査、そして、それ以前からの、欧州統合が問題になるときのあらゆる世論調査で、この2項対立は4半世紀以上も何も変わっていないというのは、世論調査の専門家や政治学者がもともと指摘しているところである(参照は略)。したがってこの対立は、欧州統合の推進が固有に含む内在的な政治問題を示しこそはすれ、「勝ち組−負け組み」的な見方だけでフランスの今回のノンの意味が片づけられることを意味しない。そして、今回のノンの勝利に決定的な役割を果たしたのは中間層の選択である。

もちろん、上のル・モンド分析記事にあるような「中間層」の没落、没落への不安という見地から、今回の二項対立の新しい枠組みを「勝ち組−負け組+ずり落ち組+ずり落ちを恐れる組」というように解釈しなおすこともできるが、そうした極めて外在的社会学的分析を一歩離れて、ノンにまわった中間層、特に左派中間層の実際の意見を聞くとき、この憲法案に対する、理論的で基本的な批判を−−その当否は別として−−知ることができる。これは別の視点として重要なことだ。

教員、特にちゃんとした資格を持っている中学高校の教師は、その雇用が脅かされることはありえず、夫婦二人が教員であるときの収入をあわせれば、ipsos / media@franchophonie の統計のグラフでいえば、いちばん上の部分にあたる、月収3000ユーロを越える高収入層で、知的にもエリート層といっていい。彼らは、労働条件については人一倍強い不満を表明する傾向はあるが、それはその労働条件を反映するというよりは、どのフランス人ももつ傾向が、この層ではっきりした知的・政治的発露を見出しやすいという以上の意味はない(と思う)。

この層で、実生活上の経済的要因に影響されず、むしろ政治的使命感と善意でノンに賭けた人の立場は、上の教員へのルポから例をあげれば、典型的に次のような発言に見られる。

喜びいさんでノンに投票に行ったのではない。フランス国民が国内にひきこもってやっていけるのではないということも承知している。しかし欧州はエリートたちに取り上げられてしまった。もしここで何も言わず、何もしなかったら、人々は唯々諾々とこの、あまりに自由主義的で、あまりに不平等な、そして庶民が口を出すことのできない、欧州建設に引きずられていくばかりとなったろう
Ce n'est pas de gaieté de coeur que je suis allée voter pour le non, [...] Je suis consciente que nous ne pouvons pas vivre repliés sur nous-mêmes. Mais l'Europe a été confisquée par les élites. Si on n'avait rien dit et rien fait, on continuait à foncer tête baissée vers cette Europe trop libérale et trop inégalitaire qui ne donne pas la parole aux petites gens.

もちろん、反対の理由には、

この憲法によって、公共サーヴィスは競争にさらされることになる。これは、公教育についての不安も生じさせることになった。
Avec la Constitution, les services publics allaient être mis en concurrence, ce qui soulevait des inquiétudes par rapport à l'éducation nationale.

という意見に見えるような、公務員としての地位を守りたいという彼ら独自の利益に基づく本能的判断からくるものもあるが、この層に典型的にみられた、現EU憲法案への批判は、自らの利益とも重なる公共サーヴィスの保護をも含む、もっとも大きな、「経済リベラリズム的の行きすぎの加速、固定化の阻止」への意志という大枠で展開され、中間層全体に大きな広がりを持った。

そしてこの中間層・左派層においては、こうした「経済リベラリズム批判」をコンセンサスとした上で、賛成反対の立場は、現在の憲法案が1国の反対によってでも否決されたとき、調整・交渉しなおしてよりよい新案(いわゆるプランB)を作り直せばいいし、それができるという主張と、それは現実的に絶対に不可能でこれで妥協すべきだという主張の対立、はたしてこの憲法条約を批准することがリベラリズムの行き過ぎを是認することになるのか、むしろ逆で憲法の成立は行き過ぎを是正するものではないかという主張の是非などをめぐって、ウィ、ノンの判断は別れていき、それぞれの論点で激しい論争となった。これらの論争の過熱の中で、私が投票日直前あたりから批判したような、デマゴギーの誘惑に陥っていく人々もいたが、憲法案を実際に読み、憲法案をあれこれの立場から分析した本を買って迷いながら判断し、順序だてて議論し、場合によってはブログに発表した人々も多い。そしてそんなところで逡巡を繰り返しながら積み上げられたノンに最も良識的であり、建設的であろうとするノンを見ることができる。

こうしたところで行われたノンとウィの議論を、実際の憲法の条文に添って、フランス人が何を議論したのか、そこでどんな価値観の対立があったのか、場合によってはどんな誤解があったのかも、含めて、少しづつ見ていきたいと思う。死んだといわれる憲法を未練がましく読んでいくのはむなしいが、ただし議論を追うことで、現在のEU建設の方向とその問題、そしてフランスの社会の現在の状況も逆に見えてくる。体系的整理をする元気はないので、そのときの成り行きまかせで前後しながらでも取り上げる。

著者と印税とアフィリエイト

id:yskszk さんが、自分の著書『Winユーザーのための自作Linux』ソフトマジック、2003)を紹介しながら(id:yskszk:20050603)

未払い分の印税をアフィリエイトで浅ましくまかなうためにも、みなさま、ぜひともお買い上げくださいませ。

Linuxに手を出すときには」としかお約束できないが、印税とアフィリエイトの関係で、著者一般の心理について、思うところ少し。

アフィリエイトによるとり分も、印税のとり分も契約によりいろいろだろうが、その金額をくらべて、前者が後者の3分の1から場合によっては半分くらい、特別な場合には前者が後者と同じくらいになるケースも想定できそうだ。翻訳で翻訳印税をもらう場合、さらにその比が前者に有利になることが多い。そこで、自分で百ページ以上、場合によっては数百ページになる本を、艱難辛苦して書いたり翻訳して、そこから1冊売れていくらの印税を受け取っている人が、自分のブログやサイトのなんらかのページにその同じ本の写真を乗せリンクをはり、だれかがクリックして買うだけでそれの数分の1から同等の金額をうけとった場合の、心持ちはいかにというもの。

もちろん印税は売れた本−−あるいは刷った本−−全部について入ってくるのに対し、アフィリエートは自分のリンクを経由したものだけになるから、総額としてはその比にはならないが、それにしても、本が一冊売れたときの取り分で、隅から隅まで書いた作業に値するものと、リンクがプッチンされたとき−−もちろん売れないといけないが−−のものが、桁も違わないというのは、何かましゃくにあわないような気がしないだろうか。もっとも一冊の本の売り上げの、書店の取り分と著者の取り分とでも、似たような比較がなり立ち、流通の利潤が生産の利潤より高いことをまじに嘆くのは、ちょっと鼻持ちならないのではあるが。

自分の本でないばあいにケースを拡大して、たとえば、適当な数行解説とともに300冊分のアフィリエートをもつ300のネットのページ(あるいはカラム)を用意することはできる。その本を読んでいなくても。これを作るエネルギーと、300ページの本を書いたり、翻訳したりする作業のエネルギーを比べたときの比はどのくらいだろうか。前者が10分の1の以下のエネルギーでできるということは十分にありそうに思うが、その300ページが1年に生み出すアフィリエートの金額総計が、自分で300ページの本を書いたり翻訳したときの印税の1年間の回収分の10分の1以上ということはあり得るだろうか。後者があまり売れない学術書、前者が売れ線の本をねらった場合、十分にあり得るどころか、比が10対1ではきかないような場合も大いにあるような気がする。

世の中がそんなしくみになっているとすると、純粋に経済的利潤だけを考えれば、ひいひいいってコンテンツ作ろうという人にはあまり勇気のでる話ではない。アフィリエートで何万円も儲けたという話を目にすると、そんなことを考えてしまう。本だけではないが、ライブドアの話が盛んで、アフィリエートのうまみが喧伝されたころも、ちょっと思った。もっともアフィリエートも実際はそんなにばら色ではないらしいが。