ブルデュー 『テレビについて』


土曜日にテレビについて書いた直後ということもあり、ブルデューの名を見て思い出したのが、ブルデューの『テレビについて Sur la télévision』(Seuil, 1996) という90ページほどの小冊子*1。パンフレット(pamphlet)といってもいい。強烈なTVジャーナリズム批判。買ったまま読まなかったような気がしたが、改めてめくってみると、全編にわたって既視感がある。どうもぱらぱらとは読んだらしい。もしかしたらこれのもとになったParis Première でのTV講演を見たのかも知れないが記憶が定かでない。


読み進んでいくうちに、前に読まなかったどころか、自分で土曜日に書いたこと、時間ががあれば展開して書きたかったこと、その前に書いた日記での姿勢など、このパンフレットでブルデューが書いているTVを中心としたジャーナリズム批判にちゃっかりと追随したものだということに気づく。出所に無自覚なまま自分の考えを自分でたどり着いた考えと思いこむほど不気味なことはない(その考えの適切さに関係なく)。出所を自分で知らないで吹きまくっていると、物知りで意地悪なやつに、こいつのはブルデューの幼稚版だなと見透かされてばっさりやられた(る)かも知れないから、やはり自覚しておくに越したことはない。それにしても、パンフレットの機能がダイレクトに他人にある考えを植え付けることにあるとしたら、この本は十分にパンフレットとして機能しうるということを身をもって体験したことになる。


TVのニュースが視聴率の独裁のもとに独特のバイアスをもつという「批判的」見方を持つのに、別にブルデューの込み入った文章*2を読む必要はない。彼が提示する分析結果の本質的な部分というのは、多くが、生活実感からくる批判的視点でだれでもが持ちうるようなものである。それを彼自身が組み立てた概念装置で分析、記述していく。このあたりがいつも大きな誤解の元になる。だれでもがはなから知っていることをなぜこんな大げさなムツカシイことばを使ってぐだぐだと言わなければならないのかという批判が出てくる。それに対しての答えの一つは、社会学の学としての手続きの厳密化というものだ。日常的なことばを常識的な意味で使うことはそのことばにつきまとう先入観を受け入れることであり、しばしばまともな分析の障害になる*3(彼は「知識人」である前に「社会学者」として自己規定していた)。その上に、定義された概念装置を導入することによって、今まで日常的なタームで考えていたときよりも分析において遠くへ行けるということがある。一旦抽象化したタームで考えるというのは現実と無関係に知的な遊びが一人歩きする危険もあるが、上手に使えば、さまざまな仮説を可能にし、見えなかったものが見えてくる可能性もある。またさらには、新しい概念装置を使わなかったときにはぼうっとしかイメージできなかったものが、明確な図式ではっきりと見えてくることもある。


この「テレビについて」でも、彼の道具の一つ champ (「場」とか「界」とか訳しているはず)の概念を導入することによって問題の所在がいっそう明確になっている。視聴率のジャーナリストに及ぼす圧力は直接に作用するものだけではなく、むしろ、ジャーナリストの仲間うちの作る小世界内で各成員が演じるゲームを通して作用する。そういう中で、お互いを横目で見ながら少しでも他に差をつけようとするジャーナリストの行動がTF1とFrance 2に同じようなニュース編成を作り出させ、ル・モンドリベラシオンに同じ見出しを選択させる図式が見えてくる。紙のメディアも含めてジャーナリズム界を見渡したとき、TF1の重みは必然的にル・モンドの編集方針にも影響を及ぼすというのが、力の場の特性一般の図式のなかで、より鮮明になる、などなど。


本当をいうとそうしたこととても、注意深い観察者なら、ブルデューが「場」の概念を導入しなくてもある程度はわかる。そういう意味ではブルデュー的な分析は天啓のようにありがたいものではない。しかしこれだけ分かりやすく図式が描けるのはやはり彼の上のような概念を通してこそだ(それだけに固定した図式化の危険もあるわけだが)。一度明確に図式としてイメージできたものはひとつの獲得物となり、それを得た人間はあやふやな迷いの状態を脱して、その先の思索に向かえる。そもそもこのパンフレットでは、それほど大げさな概念は使われていない。ブルデューの理論を知らない一般読者にとって新しく出会うかもしれないのは、上で触れた champ の概念と、symbolique という語の使いかたくらいである。これとても文脈から常識的に理解できる範囲である。もともとがコレージュ・ド・フランスの講義用に社会学の専門家でない一般読者に向けられたメッセージとして書かれた文章である。


彼がそこで提示したTVジャーナリズムに対する批判的分析は、社会学的分析を逸脱した極めて政治的な参加、いたずらに論争的なものとして、特に、分析・批判の対象となっているメディア関係の人々からかなりの批判を浴びた。「le cas Bourdieu ブルデューのケース(ブルデュー事件)」という語まで生まれたくらいである。もはや単なる社会学者ではなく、知識人の大司祭として祭り上げられた彼がその知的権威・政治的権力を半ば確信犯的に利用していることに危険性を見た人もいる。


視点を変えればそこにブルデューのあせりが見える。彼がTVの及ぼす権力の重大性、危険性をはっきりと自覚し、主たる批判の対象に選んだのは、1995年秋の大ストライキのTVでの報道のスタイルを見てからだという。彼のこのTVジャーナリズム批判は96年当時話題にはなり、上のような小さな騒動も引き起こしたが、多くの人に緊急のものと理解されたようには思えない。が、彼が亡くなった2002年に行われた大統領選挙の選挙戦の騒ぎの中で「治安低下 insécurité」というキーワードをめぐってマスコミで起ったことはまさに、彼がこの冊子の中で明らかにした図式の典型にほかならなかった。「治安低下」という観念は2001年の秋にはすでにマスコミの中で花形トピックになりはじめた。そして年を越し選挙戦が進むにつれこの観念に結びついた三面記事が加速度的に増え、大統領選挙の直前にはTVを見る限りでは治安問題が実際の唯一の争点になったかのようだった。そしてこれが結局、政策的にはこれといった失点もなく首相として高い支持率を維持しながら選挙戦にはいったはずのジョスパンにとって致命傷となった(他にも原因はあるが)。ブルデューは1月に亡くなっているがあとしばらく元気で3月、4月にテレビニュースを見、そして4月21日の大統領選の第1回投票の結果を見たら、自分が鳴らし続けた警鐘の決定的な重要性を不幸にも確認するはめになったことだろう。この出来事はTVニュースがもつ恣意的な権力の大きさを、TVジャーナリズムの内部にいる人々も含め、多くの人が痛切に自覚するきっかけとなった。ブルデューのこのパンフレットについても改めて云々されたような記憶がある。手持ちの版を見ると2001年10月発行、第23版となっているが、多分私自身も、著者の追悼というよりも、そんな状況でこの冊子に興味を持って買ったような気がする。


今年に入ってから大きく三面記事をにぎわす事件は差別的憎悪にもとづいた犯罪である。ユダヤ人が襲撃され、ユダヤ教徒イスラム教徒の墓がそれぞれに荒らされる。これは現実に大きな問題である。この種の事件はこの去半で過去の倍になったという。ほんとうの数は昔からもっと多いと言う人もいる。ユダヤ人は、ユダヤ人に対する憎悪犯罪を警察やマスコミが一部しか取り上げないと批判する。イスラム系の人々のほうはまったく逆に自分たちを狙う差別的事件がユダヤ人に対するそれに比べてクローズアップされないと批判する。こういう状況ではこの種の事件は三面記事としての報道のされかたの微妙な違いでさえも世論形成になんらかの役割を果たす*4


そんなことを考えていた矢先、金曜日の朝にRERの中で乳母車を押した若い母親が6人のマグレブ系と思われる若者たちにからまれ、誤った推測からユダヤ人と思われ、服を切り裂かれ、髪をナイフで切られ、腹にハーケンクロイツをフェルトペンで書かれるという事件が日曜日に大々的に報道された(この事件についてはtemjinusさんが日曜日の日記でいち早く紹介している)。20人ほどいたという乗客が誰一人止めようとも、警報機を鳴らそうともしなかったという。第一報を見たのは偶然にもTF1のサイト。大きな臨時ニュースとなっていた。イスラエルのテロのニュースを吹き飛ばしてどのTVニュースでもトップになるだろうと誰にでも直感できるインパクトがある。被害者の恐怖に思い至り、犯人の卑劣さと乗客の無関心に憤りを感じる気持ちは誰にも共通する。が、TF1のように6人の男のグラフィックスまで作ってコンピュータ紙芝居で恐怖のストーリーを語ることが果たして必要なのか、France 3やル・モンドのように多少なりとも全体的な社会情勢の流れの中での分析的な紹介にエネルギーを注ぐことがより適切ではないのかと問うてみる、またこうした事件のメディアでの報道のされかたが事件が政治的にどんな方向に回収利用されていくのにどうかかわりあっているかに少しばかりは注意深くいつづける、そうした目の必要性を−−その難しさと無力さとともに−−ブルデューの小さな赤いパンフレットのいらだった調子が新たに思い起こさせた。


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*1:最初邦訳書はないと思っていたが、『メディア批判』というタイトルで2000年7月に出版されていることを本文を書いている途中で知った。訳書にあるであろう訳者の解説を読んでいないのでなんとも言えないが『テレビについて』という平易明快なタイトルを変更したのはいただけない。マーケティング戦略を考えた洋画の輸入会社のようなことはこういう本ではあまりしないほうがいいのではないだろうか。紹介文に「貧困化し瀕死の状態にある、政治、思想、文学、芸術。それらを再生させるために必要な分析と実践的行動を、具体的に明快に提唱する。」とあるが、この本のなかで具体的な実践的行動が明確に提唱されているようなことはない。ブルデューはだいたいそうだが実践的行動を人に示したりはしない。人がはまり込んでいる構造を冷徹に書いてみせるだけである(だからペシミスティックだとも言われる)。ただでさえパンフレット的側面がさんざん物議を醸したのに、その面を何倍にも誇張することはブルデューが分析と参加の間で綱渡り的に選択したポジションへの理解を歪める誤解を助長するおそれがある。センセーショナルな紹介は彼の本を彼が描いた構造の中の戯画的なひとこまにしてしまいかねない。90ページ、30フランのペラペラといってもいいパンフレットが200頁余1800円になってしまうのは翻訳書の採算ということを考えればいたしかたのないことだろうから特に文句をいう筋合いはないが、ただ、フランスでの受容の文脈の中での本書の性格を実感として知る上で無視できないので、訳書しか手にとらない人のために情報としては提示しておきたい。いずれにせよ日本語になって読めるのは慶賀すべきことだ。

*2:一見して文が込み入っていることと難解さとは別物である。一般にブルデューは難解と言われるがこれは複数の誤解によることが多い。むしろブルデューの分析手法には「わかりやすさ」の罠のほうが多く含まれている。これについては改めて書きたい。

*3:これはブルデュー自身が『社会学のメチエ』強調した。

*4:スカーフ問題のときにイスラム教徒の共同体内部で娘たちがこうむるハラスメントについて私自身が強調したが、これにしても、情報・イメージ操作を指摘する側もいて、ナイーブな態度のままではいれない。