友だちの友だちが...


狂言でも何でも事実が明らかになればいい。いちばん不健全なのは事実があいまいなまま人々の集団幻想が肥大していくことだ。


フィガロの13日の記事では、RER事件の「被害者」の」女性の証言を疑う根拠として、彼女の知人の次のよう趣旨の話を掲載していた。すなわち−−この事件の話を聞いて驚いた。というのはこれは先週、彼女が友だちの友だちの男性の話として聞いた事件にそっくりだからだ。その男性はユダヤ系なのだが、若者たちに襲われ財布をとられようとしてもみ合いになった。そのとき彼がセーターの下でダビデの星を首に下げているのを若者たちが発見し、彼は反ユダヤ主義的侮辱とともに暴行を受け入院するはめになった、云々。


これが結局、「被害者」の女性の証言を疑う大きな要素にもなったのだが、彼女の問題を離れて考えると、この話は2つの解釈において重大な問題を含んでいる。


というのは、まずこの友人の友人の話がほんとうだとすると、こういう話が、彼女の件が出るまで、メディアの大きな注目を浴びず単に数字として処理されていただけということになる。これ自体が大きな問題だ。ストロース・カーン氏の「10番めだか20番め」という発言がこれにつながる。また今日づけにル・モンドの論壇に投稿された、作家の H.ラジュモフHenri Raczymow 氏の「真実を言う嘘つき Une menteuse qui dit la vérité」というレトリックに巧けた文章もこの問題意識から発している(「彼女は嘘つき常習者ではなく簒奪者だ Marie-Léonie n'est pas une mythomane. C'est une usurpatrice」とも)。


しかし一方もしこの「友だちの友だちの話」というのが嘘であったとすればこれはこれで重大な問題につながる。つまり「アラブ人」「マグレブ人」のユダヤ人襲撃について根拠のない噂話がまことしやかに語られていることになるからである。都市伝説のようにこういう話がある場所で広がっていくことを想像させる。食事の席で話題がある方向にむいたところで、誰かがまことしやかに声を潜めて「そういえば友だちの友だちが...」とはじめる。子供をさらうジプシーやブティックで若い女性を誘拐するユダヤ人商店主の話の変種にほかならない。ユダヤ人社会の防衛的過剰反応ならまだいい。ユダヤ人もいないところで、こういううわさ話がささやかれ、「アラブ人」のユダヤ人差別の話が語られ、こんどは返す刀で「ユダヤ人の陰謀」についての話が始まる...こんなシーンを想像すると、この「友だちの友だち」の話はむしろ本当であってほしいと複雑な気持ちで思う。