モスタルの石橋復元

fenestrae2004-07-24


1993年に破壊されたボスニア・ヘルツェゴヴィナの町モスタルの石橋がやっと復元されて開通式が23日に行われた。Nikkei NET で日本語の記事がみつかったので(Yahoo-Japan! も asahi.com も記事を載せてください。お願いします)まず引きたい*1

民族共存のシンボル開通、ボスニア内戦で破壊の石橋
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20040724AT3K2400624072004.html
モスタルボスニア・ヘルツェゴビナ)23日共同】ボスニア・ヘルツェゴビナ南部を流れるネレトバ川に、16世紀に架けられ、ボスニア内戦時に破壊されたモスタルの石橋「スタリ・モスト(古橋)」の修復が完了、23日、開通式が行われた。▼16世紀にオスマン・トルコが建設した石橋は、川を挟んでクロアチア人、イスラム教徒が住む町の共存のシンボル。内戦終結後、民族和解のためにも多くの住民が再建を待ち望んでいた。▼再建を主導した国連教育科学文化機関(ユネスコ)は近い将来、石橋を世界遺産に指定する予定。▼開通式には、ユネスコの松浦晃一郎事務局長や、ボスニアのティヒッチ幹部会議長、欧州各国の大統領らが出席。▼長さ30メートル、幅4メートルの石橋は1993年11月にクロアチア勢力の砲撃で破壊。2001年から再建工事を開始。作業には主要3民族も参加した。▼石橋は約1000個の石材をアーチ形に積み上げた形で、再建工事では川に落ちた石材を引き上げるなど、できるだけ同じ材料を用い忠実に復元した。 (17:00)

「ユーゴ内戦」の前には観光名所として人気のあった場所だから、日本から訪れ実際に目にした方も多いのではないか。私は近くの都市まではいったが旅程の関係で断念しいつか行きたいと思っているうちに、そのあと砲撃で破壊されてしまったと聞き、無念を味わった。こんなニュースには少しでも慰められる。

昨日のフランスのTVでも報道され、昨日、今朝の新聞も一斉に記事にしている。フランスからはM.バルニエ外務大臣が出席した。ル・モンドの現在のネット版ではトップページに写真とともに、

復元されたモスタルの「古橋」の開通。
Mostar inaugure son Vieux Pont reconstruit

LEMONDE.FR | 24.07.04 | 08h02 • MIS A JOUR LE 24.07.04 | 08h21

という記事を載せている*2。だいたい上の共同-日経の記事がもっと詳しくなった内容で、違うのは最後に町の住民の状況についてちらりと触れているところくらい。もっともこの開通式のニュースとしては過不足のない記事だから、私もこのル・モンド掲載のものを紹介してめでたしめでたしと通りすぎることもできたが、ちょっと気になることがあった。実は上のル・モンドのサイト掲載の記事はル・モンドの自社記事ではなくAFPとReuter配信のニュースをまとめたものである。橋の復元工事にまつわる背景や記者が現地で取材した生の声がほとんど伝わってこない。

それで他の報道を覗いてみた。リベラシオンの記事もロイター配信のもので概説的な報道。現地特派員が町の状況や町の人の声をていねいに伝えるのは、ラ・クロワ La Croix の記事 「Un pont pour la réconciliation à Mostar モスタルの和解に向ける橋」

この中で、この橋の復元は和解への道のほんの小さな一歩でしかないとしながら、橋の復元プロジェクトについてこんな意見を紹介する。

しばしば派手な結果を追い求める国際社会は(この橋の修復に)モスタルの「二つの側」の和解の象徴をともかくも見たがるが、現実はもっと複雑である。2003年までこのプロジェクトに関わってきたフランス人の建築家、ジル・ペクー Gilles Péqueux氏は次のように語る。「この復元工事にモスタルのそしてボスニアの人をもっと参加させ、ほんとうの和解のプロジェクトにしなかったのは残念だ。大部分が外国からの工事者による接ぎ木作業のようなものではなく。

こんなことを言うペクー氏とは何者か。何の資格でそう言うのか。RFI(Radio France International)のニュース「Mostar retrouve son pont et veut effacer ses divisions モスタルは橋を取り戻し、分裂の解消に努める」が次のように簡単に事情をまとめている。

フランスの建築家ジル・ペクー氏によって率いられた最初のプロジェクト・チームは、古い絵葉書やトルコの建築技術などから学び、最初の設計案を作製した。ペクー氏はまた石工の学校も(現地に)開校していた。氏は、復元は町の住民が参加しなければ意味がないとする。このやり方はユネスコもからも支持された。しかし、モスタールの町とボスニア政府は、2002年に世界銀行の出資するもっと工期の速い計画案を選びこれを斥けた。復元された開通式を少しでも早くというのが最優先とされ、結果的に、この復元作業はは歴史的意義の大きな部分を失ってしまった。

フィガロの記事

L'ouvrage au-dessus de la Neretva est inauguré aujourd'hui mais la réunification de la ville reste encore fragile -- La renaissance du vieux pont de Mostar
ネレトヴァ川にかかる作品は今日落成したが、町の再統合はまだ不安定 -- モスタルの古橋の再建

は、ペクー氏の自身の失望と怒りの声を紹介する。このフィガロの記事、その他以前に発表されたペクー氏の活動をめぐるいくつかの報道*3からいきさつを簡単にまとめると、次のようになる。

ペクー氏は1994年にモスタルを訪れ、橋の再建のプロジェクトをはじめることを決意する。氏のさまざまな国際機関への働きかけにより、計画は日の目を見はじめ、ユネスコなどの支持を得て、氏は再建計画責任者として準備作業をはじめる。氏の考えの基本は、対立しあっている町の人々が実際に再建に参加し、石をひとつひとつ切り出し、積み上げる作業によって、和解をとりもどすというものである。特に若者が。石工の学校を現地に開いたのはそのためである。しかし、上に出てきたように、2年前に現地の市長は方針を変え、世界銀行の支持を得た別の案を採用する。期間と費用がかかりすぎるというのがその主な理由である。入札で工事を受注したのはトルコの建築会社で、そして今回の落成にいたる。

私はペクー氏を知らない。上のような彼とその支持者側からの言い分に反論する側の議論は目にしていないし、また、個人的にフランスの建築家のいうことを鵜呑みにできない習慣があるので(ごめんね)、上にまとめたことに関して100パーセントの確証を与えながら、氏が嘆くように今回の復元を「失敗」と人に宣伝することはできない。が、どのような私の知らない事情が裏にあろうと、氏が提唱していたアイディアは、その光景を頭に思い描いたとき、美しいと思うし、氏の無念さを分かち持てる。

建築物はできてしまった以上、どのようなものであれしょうがない。もともとこの橋の破壊を嘆くのは、貴重な文化財の消失だけを見るのではなく、背後にある人間の死や対立を思うものでなければならなかったはずだ。だから橋の復元についてのこの不協和音は、橋の建築によって問題が終ったのではなく、それを取り囲む人たちのことを皆がまだまだ少しだけでも気にかけていかなければならないことに注意を促すものとして、知る意義があるだろう。上のラ・クロワ、rfiの記事はその視点をもって書かれ、町の人々のことを主に伝える小さないいルポだ。

橋の今の様子は→ このリンクから8台のライブカムで見られる。

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ル・モンドの通信社経由の記事だけでなく他の記事も見てみようと思ったのは、たまたま個人的にこの不協和音のことをちらりと耳にしたことがあるからだ。2ヶ月ほど前に、大勢での会食をともなうあるうちとけた席で、どういう筋道か知らないが、隣りの人とたまたまモスタルの橋の話が出たときに、町の人たちが石を積んで作るということになっているのだが市長とうまくいかず頓挫しているとその人が言うのを聞いた。住民の和解が容易でない話も併せて。「もう終り C'est fini」というのが、どういう意味かわからないまま、話が次に行ってしまったので、こんなふうに別案の計画ですでに落成の手はずが整っているということは、落成式を予告するニュースに接するまで知らず、上のような詳しい事情は今日はじめて調べて知った。

この話をしてくれた男は、これまで何度か会ったことがあるが、ある公的組織の中間管理職で、役人くさいちょっと冷たく、高慢な人間だという印象を持ち、間接的だがその官僚的態度のとばっちりをくらったこともあるので、これまで敬遠していた。が、話してみると、NGOのヴォランティアとしてボスニアの総選挙やその他の機会に何度もサラエボに行ったこと、難民の子供のケアの活動に参加していることを、情熱をもって話し、いつもと表情まで違うのに驚いた。人は話してみなければわからない。もっともこの次、役人として会ったときにそんな顔がみられるかは極めて怪しいが。ときどきこういう人間に出会うことがある。

*1:追記 7月25日 asahi.com には25日づけで 「モスタルの石橋、11年ぶり復元 ボスニア内戦で崩落」が掲載された。

*2:追記 7月25日 Le Monde はペーパー版7月25日付け記事としてDes milliers de Bosniaques ont vu "ressusciter" Stari Most dans l'espoir d'oublier la guerre と Le ministre des affaires étrangères, Michel Barnier, porte le message européen dans les Balkans を24日夕ネット版に掲載。ただし本文中で紹介した La Croixおよび RFIの記事のように現地の人々の声を伝えるものではない。

*3:英語では2002年当時の彼の活動をつたえるニューヨーク・タイム・マガジンの記事 Michael Ignatieff, "When a bridge is not a bridge", New York Times Magazine Oct 27, 2002 が次のリンクで読める。