やりきれず美女、ぶどう酒、異国珍味

ポストコロニアリズム的芸術批評やジェンダー論的芸術批評の名のもとになされる分析を読んでいると、ときに、一昔前の、階級論的芸術批評の再来のような、しかもそれが精緻になったような印象を受けることがある。しかも、時代は進み、精神分析記号論物語論、知の考古学、解釈学などからあらゆる手法を貪欲に吸収した精査の体系はジュダーノフの時代とは比べものにならないくらい整備されてくる。今や、方法論として定型化されテクニックとして学校で習うこともできる。

男社会にやっと入り込んだ女性たちが手作りの斧やハンマーで、でぶっちょのおじさんたちに勝負を挑んでいるのはケナゲ*1で感動的だったし、ピカピカに磨いたメスで偽善おやじをスパスパ切るのを見るのも気持ちよかったが、自動小銃が普及してくるようになると、見物なんて言ってられなくなってきた。それにNATOのおかげで今や標的外損害(dégât colatéral)になんて誰も同情してくれない。いや標的外なんて呑気なことは言ってられない。自分が自分の顔と思っていたそれなりにスリムな面は仮面で、それがはがれるとその下はいつのまにデブの名誉白人なんて、急に宣告されたりすると、きゃあ...

告発のセンサーが技術として整備されれば検閲のシステムへの応用に紙一重だ(壁が落ちててよかった)。支持する大義を自分なりに共有していても、システムが組み立てられ、作動するのを見ていると、息苦しくなる。センサーの精妙さにはときどきやりきれなくなる。フーコーならどう見たろうか。

やりきれないときは、男が女を縛る小説や征服者が非征服者を虐殺する物語の、そのテクストの美しさに身をゆだね、かつひきこもりにならないように、びくびくしながらもおおっぴらにその美の価値を称揚する元気をつけるために、美女とともにぶどう酒、異国の珍味を−−女性を欲望の対象と見せる広告の規制への要求がだんだん活発になり、70年代の軽薄な90年代のバブル・シックな様相が街角からテレビから消えていこうとするフランスのなごりの中で−−楽しむことにしようか。

ところで、今気づいたが、id:tristanoさんの日記「 Feeling de TRISTANO ou bien un tel profil aérodynamique qu'on renonce à savoir où une ligne va s'arrêter, ayant déjà oublié où elle avait commencé」がなくなっている。私はRéseaux Tristano のメンバーなんだが、レゾーは地下にもぐってしまったのか。おおい!おいてかないでくれ。tristano tristano。レゾーの残党 id:odat断腸氏もid:jedisunefleur一華宮氏も帰省中で静かだ。id:temjinus 天茄子さんADSL直して早くなんか面白いネタ書いて。

*1:要注意語彙