タマネギの皮の小さな音楽 −− F.サガン「悲しみよこんにちは」

第一報から見たニュースに執着する癖があるようで、サガンのことが何かと気になる。土曜日につらつら各紙の追悼文を読み、今日はFrance 5のドキュメント番組「Françoise Sagan une vie de tous les dangers フランソワーズ・サガン 危険に満ちた一生」を見る。France 5の番組は今年4月に作られもので、明らかに彼女の死を予想して追悼番組用にしたてられている。この番組のタイトルに象徴されるように、他の追悼文も含めて、回顧の多くは、id:sujaku さんがF.ベグベデの表現を引いて注意を向けたような「いまだに『ロックンロールな人生を生きている』サガン」の側面を中心に彼女の像を描く。以前この日記で何気につかった「漂白」を、id:Soreda さんがキー概念にまでしてくれたが(id:Soreda:20040920)、今度はこちらがそれに便乗すれば、いわば「漂白」されないサガンが今や神話になる*1

自動車事故や麻薬所持、脱税などの大きな事件のほかにも、神話を作るエピソードにはことかかない。68年のパリで学生たちが占拠するオデオンにやって来て、フェラーリで乗り付けたことを批判されると、フェラーリではなくマセラティだと「反論」する。自殺未遂した友人の見舞いに行って、今度やるときは事前に知らせてくれればつきあうからと言い放つ。はちゃめちゃな浪費で文無しになったところで、競馬の大穴で救われてはまた同じ生活をつづける。唯一自分のものにすることのできたノルマンディーの家はドーヴィルのカジノで一晩で当てた金で買ったものだ。


悲しみよこんにちは」は大人になってから読んだ。高校生のときにこの人の第2作めだけは女友達から貸してもらって読んだが、「悲しみよこんにちは」のほうは青春のはしかのように読む機会を逸してしまった。20代のときに何かのひょうしにはじめて英訳で読み、30代になってはじめてフランス語で読んだ。この手の小説は年をいってから読むことで失うものと得るものがある。私のばあいは、みずみずしい感興を失ったが、1954年にこの小説が出たときそれを読んで驚いた当時の大人たちの視点を共有することができた。

読み返すほどの元気はないが、内容を思いだしながら、面白いと思うのは、この作品がまとっている視点の重層性だ。

書き出しから一人称で語る一人の娘がいる。その娘は、これから始まる物語の中の17歳の娘セシルと設定は同一人物であるが完全に同一の存在ではない。物語のおこる夏と物語の冒頭を隔てる大きな事件のもたらす「成長」によってこの2人のセシルは隔てられている。ヴァカンス中のセシルはどうか、一方に、勉強嫌いのしばらく前まで寄宿舎いたわがまま娘がおり、その一方に恋愛の心理のメカニズムに熟知し計算づくで他人を操作する賢しい小娘がいる。耳年増でほんとうの恋愛を知らない子供が、はじめてめばえた恋愛感情によってただのうぶな年相応の少女になろうとする契機がある。

そしてそれらすべての外側に、しかし読み手にとっては不可分のものとして、作者の、フランソワーズ・クオレズ改めフランソワーズ・サガンがいる。反射的に人が見るのは、17歳の体験をもとに小説を書いた18歳の天才少女。セシルの生活特権を享受するブルジョアの娘だ。もっとよく見れば、受験勉強を嫌ってだだをこねるどころか、すでに15歳で20点中17点の成績でバカロレアを通過した「ソルボンヌの女子学生」がいる。その女子学生作家が書くのは、体験をもとにしたミニ成長小説、あるいは感情教育小説なのか、それともラファイエット夫人ラクロ、ラディゲにつらなる冷徹な心理小説なのか。どちらにも印象を与える危ういバランスの中で、この作家は、小説の中のセシルをステージングしている。そしてさらにセシル=フランソワーズの役割をマスコミから割り当てられながらそれをときに忌むように、ときに楽しむようにステージングする、少女の顔に老成した表情をもつサガンがいる。

それらすべてがタマネギの皮のように「悲しみよこんにちは」という作品と「悲しみよこんにちは」をめぐる社会現象をとりまき、この小説の受容の可能性を多様なものにしている。一人称の物語の主人公から社会的存在としての作者までの複数について、自己とそれぞれの層の、そしてそれぞれの層の間の距離を上手にはかり、どれかにべったり陥らないように、しかしその層がみえみえに分離しないように、その層の間を自在に行き来しながら戯れ、なおかつそれを自然に見せることのできる作家は少ない。特に女性にはむつかしいと思われているのに18歳の娘がそれをやりきったのを、少しでも小説を読む心得のある大人たちは、当時の習慣に従って仮綴じ〆のこの本の頁をナイフで切りながら読み進むごとに発見して驚いたはずだ。その戯れに一貫性を与えているものを、当時の目利きの読み手は文体の「小さな音楽 petite musique」と名づけた。

50年前にこの小説が出たときに起こした道徳的スキャンダルの大部分はもうわれわれには理解できない。離婚が白眼視された時代。結婚しないカップルは絶対にちゃんとした食事の席に呼ばれることのない時代。十代の娘が一夏放埓に遊びながら、妊娠という罰を受けないというだけで人が憤激した時代だったと、TV番組のジャーナリストは説明する。しかしまた、そうした皮相なスキャンダルのほかに、もっと深刻な道徳的なスキャンダルを起こすたねがこの小説にはあった。

この小説は、自分の分身たる父親が、社会を象徴する侵入者によって、分別くさい大人になることを、その娘=私が禁止する物語だ。その禁止行為の策略によって犠牲者が出た。犠牲者を生んだ私は、当然おこるべき単純な後悔の感情を、名づけることもできない、甘美な絹のような手触りの何ものかとして享受し、愛撫する。1950年代になお社会に生きていた伝統では、他人の死を呼ぶ行為の自省は宗教的な悔悟によって解決をみなければならない。それがあればカタルシスによる成長さえ許される。さもなければ残された選択肢は因果応報の天罰だ。しかしこの娘は、他人の犠牲によってひこおこされた感情を、宗教的ではなく、哲学的でさえもない、美的・感覚的ななにものかに変化させながら、いつくしむように抱き、禁止行為の成功を享受しながら生き続けることを肯定する。そこに成長があるとすれば、それは改心ではなく、自己肯定による成長だ。

初版の帯にあったという、「肉体の悪魔」をもじった「魂の悪魔」という文句は、そうした毒を売りものにしようとした意図をじゅうぶんにうかがわせる。この小説が初めて読む人にいまだにスキャンダルであり得るとすればこの部分だ。そして、自分の分身に対し、第三者の死のタブーをもって、分別ある大人になることを禁じた魂の小悪魔は、その禁止をやはり自らに引き受けたまま生き続けなければなかったように見える。

*1:日本での受容における「漂白」については、id:sujaku さんが以下のように指摘する。「サガンの作品は、朝吹登水子に拠る翻訳をつうじて、数々の女流作家に影響を与えた。日本でも「1人称で書く女流作家の3人に1人は、サガンの影響下にあるのではないか」というほどの大人気。ただしサガンを意識した作品は、山田詠美以外は、どれもこれも気の抜けたソーダ水なものばかりなのは、<小説の7不思議>のひとつだった。」id:sujaku:20040911#c