慰霊の日

id:swan_slab さんの「慰霊の日」の記事 を経由して、id:finalvent さんの極東ブログの昨年の記事「慰霊の日」に思う雑感を読む。この中で

慰霊の日は、日本軍の組織的戦闘が終結した日だと言われている。嘘である。組織的な戦闘はその後も続いた。沖縄戦終結したのは本土より遅れて9月に入ってからだ。琉球列島守備軍が嘉手納米第10軍司令部で正式に降伏文書に調印したのは、9月7日。沖縄の慰霊の日はこの日に移すべきだと思う。

「嘘」という表現が適切かどうかは分からないが、これは以前からよく指摘されていることにある程度呼応する。例えば、『沖縄大百科辞典』(沖縄タイムス社、1983)の「沖縄戦」の項目で執筆者の大田昌秀氏(現参議院議員、元沖縄県知事、執筆当時は琉球大学教授)は、

6月23日を沖縄戦終結の日とするのが妥当でない理由は、その日は沖縄守備軍司令官の牛島満中将と長勇参謀長が自殺した日ではあっても、戦闘が終結した日とは思われないからである。

とし、6月23日以降の戦闘の例をあげた後、

米上陸軍の主力第10軍のJ・スティルウェル司令官が連合国総司令官マッカーサー元帥から南西諸島の日本軍の降伏受け入れるよう指示され、それにともない宮古島から第28師団の納見敏郎師団長、奄美大島から加藤唯男海軍少将と高田利貞陸軍中将らが嘉手納の米第10軍司令部でスティルウェル大将に南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏を申し入れ、6通の文書に署名して正式に降伏したのは、9月7日である。したがって沖縄戦終結日は、9月7日とするのが合理的であり、現にアメリカの記録にもそう書かれているものもある。

とする。ただし大田氏が、ここで問題にしているのは、「慰霊の日」を6月23日とすることの是非でも、また「組織的戦闘が終結した日」の解釈でもなく、「沖縄戦終結の日」とすることについてであることには留意されたい。

極東ブログの記述に戻ると、その先のほうで、

じゃ、この23日って何よ?であるが、日本軍第32軍司令官・牛島満中将と同参謀・長勇中将が糸満摩文仁で自決した日だと言われている。嘘くさい。22日じゃないのか?[...]
22日説が強いのに、なんで23日が「慰霊の日」となったのか? 答えは、ちょうど6月23日が本土の安保デーだったからだ。本土左翼の運動デーを沖縄に持ち込んでいたので、それに近い日付をかぶせたのだ。それ以前の沖縄では本土から分断された4月28日を沖縄デーとして社会運動をしていた。

牛島中将の自決した日付を6月22日とすべきか、23日未明とすべきかについては、これはこれで別個に確定すべき問題だが、後半の、「答えは、ちょうど6月23日が本土の安保デーだったからだ。本土左翼の運動デーを沖縄に持ち込んでいたので、それに近い日付をかぶせたのだ。」について、簡単にそう割り切っていいのかどうか、しばらく検証がいる。また、「それ以前の沖縄では本土から分断された4月28日を沖縄デーとして社会運動をしていた。」というのは、それ以前というのが具体的にいつ以前かはこの文からは不明だが、「慰霊の日」と「4.28」の関係を交替関係としてとらえていいのかははなはだ疑問である。

「慰霊の日=安保デー」説が、定説になっているのかどうか興味をもったので、ネットで少し調べたら、上の「極東ブログ」の説に近い「6.23、慰霊の日という虚構」という文章を目にすることができた。「1974年10月、沖縄県は県の条例として、6月23日を「慰霊の日」と定め、県内の祭日とした。」で始まるこの文章の著者によれば、

6.23は沖縄戦終戦の日ではない。ヤマトの軍人の親分のハラキリ記念日というくらいのもので、これを追悼するのは当然、右翼・左翼を含めて本土ナショナリズムの文脈にある。当然、この日を重視していたのは、沖縄の本土復帰運動の母体だった復帰協などであった。本土復帰が実現し、復帰協が解散するまでは6.23は「反戦デー」と呼ばれ、4.28より重視されてはいなかった。
6.23が反戦デーから、より重視されるようになった真相は、たまたま偶然、この日がヤマトの左翼運動、原水禁の反安保統一行動日だったからだ。
...
つまり、この6.23は、60年・70年の本土の左翼運動である安保の文脈に刷り代えられたのだ。
別の言葉で言おう。本土復帰とともに、沖縄の大衆運動は、本土の社会運動の組織のなかに組み入れられていったひとつの象徴として6.23がある。

この文章からは、沖縄の人にはたいした意味を持っていず「反戦デー」と呼ばれていた6月23日が、日本本土の左翼の反安保運動の影響を受け、本土復帰後に「慰霊の日」として重要視されるにいたったというような主張がどうしても読める。上の id:finalventさんの の文章も、敷延すれば、これと同じ論理があるように見える。

検索してみると、沖縄の人が書いたと思われる文章でも、慰霊の日が1974年の県条例で始まるようにとれる記述をしているものがある。世代的に1974年以前を知らないためかもしれないと思ったが、そうではなく明らかに不用意な記述もある。たとえば『沖縄大百科辞典』でさえ「慰霊の日」の項目で、

1974年10月、県条例により制定された沖縄独自の祭日。6月23日のこと

というそれ以前の歴史を無視した、不十分な定義に終っており、さらにはこれを別の筆者による記事「6・23反戦デー」に送り、そこでは

毎年6月23日には沖縄戦終戦の日にちなんで慰霊祭行事が行われているが、復帰協が解散するまでは反戦デーとして街頭ビラまき行動が行われた。全国的には原水禁の反安保統一行動日であり、沖縄でも呼応して摩文仁集会が開かれている

とのみ記述されている。これは、沖縄の人にとって復帰前の「慰霊の日」がどういうものかということを暗黙の前提として書かれており、そこを理解しないと、上記の「6.23、慰霊の日という虚構」のようなやはり誤解を生みやすい記述にストレートにつながってくることになる。

誤解の元を断つために、まず端的に言うと、「慰霊の日」は1974の沖縄県条例をもって「慰霊の日」になったものでもなければ、復帰前に4.28より軽視されていたものでも、一義的に「反戦デー」だったものでもない。

1960年代の沖縄を体験した者なら誰でも、その時代すでに、「慰霊の日」が追悼のための休日であり、重要な行事だったことは覚えているだろう。「4.28」が運動家を中心に大衆動員をはかる政治的な行動の日であったとすれば、「慰霊の日」は「ひめゆり部隊」や「鉄血勤皇隊」をはじめとする戦没者の慰霊の日であった。庶民的な生活実感からいえば、4.28が、日本復帰を願う人々が−−もちろんその数は多い−−仕事や学業を終えた後、時に家族づれで、夕方から夜にかけて提灯行列をする日であったとすれば、「慰霊の日」は休日であり正午のサイレンで黙祷をする、全住民になんらかのかかわりを持つ日であった。前者で主導的な役割を果たすのは復帰協であり、後者においてそれは沖縄遺族連合会や琉球政府である。この二つは意味付けが違い、どちらが重要かと比べられるものではない。どちらも沖縄の人間にとって1960年代を通して重要な日であった。

こうした基本的事実の確認から出発するとして、「慰霊の日」の起源、1972年以前の歴史については、しかし、具体的に注意深い検討が必要である。同時代の一次資料や新聞報道などを利用する環境にないので、手元の少しの文献とネットから拾える中で確実なデータを元に話を進めてみる。幸運なことに、沖縄タイムスが1960年代から現在までの「慰霊の日」に掲載した主要記事をまとめた「過去の『慰霊の日』特集一覧」というテキスト群が重要な同時代証言として参照できる。

さて、慰霊の日が最初に琉球政府の「法定休日」になったのは1962年のことである。琉球政府下において休日の変更は、立法院での決議により「住民の祝祭日に関する立法」への変更によって行われたはずだが、この決議や、決議にいたる事情については、残念ながら探しきれない。前年の1961年であったろうというのだけはわかる。また、1962年の休日以前の「慰霊の日」については、「1961(昭和36)年から沖縄県生活福祉部援護課が実施」という記述もネットで目にするが、これに関しても、一次資料に近い形で裏づけがとれなず、そもそも沖縄県…という部課は当時存在しない(「生活福祉部」も当時なければ、部署名のフォーマットは「琉球政府○局×課」)。

「慰霊の日」は、1962年のこのとき6月22日であった。6月22日になったのは、この時、牛島中将の自決日が6月22日と考えられていたからであり、この日をもって沖縄戦終結したと考えられていたからである。慰霊祭のハイライトはこれに続く時期は常にそうだが、牛島中将と長中将を慰霊して建てられた「黎明の塔」前での追悼であった。この塔は1952年に建設されていたが、この行事を機会に62年10月改修されることになる。初の法定休日となった「慰霊の日」について、沖縄タイムスは次のように書いている

あす二十二日は�慰霊の日�。当日は沖縄遺族連青年部の南部戦跡。「平和行進」をはじめ、六カ所で慰霊祭がおこなわれる。二十二日は沖縄戦終りの日で、戦争でなくなった十九万四千余(うち一万二千は米軍)のミタマのめい福を祈ると同時に、二度とあのような悲劇がおきないように全住民が心をこめて祈る日として、法定休日に指定され、ことしはそのはじめての日。厚生局は二十日午前十時から広報車をくり出して「二十二日は正午の時報と同時に全住民一せいに黙祷をささげましょう」とよびかけている。

安保条約の歴史から考えて、慰霊の日の定まった時期の1961-2年というのは微妙だが、果たして、安保条約発効日の6月23日にこじつけようとして、だれかがわざわざ他のイベントでなく、この日を選んだのだろうか。そうとはとても考えられない。61-2年当時の立法院は、日本の自民党ともアメリカ軍当局と折り合いのいい保守党の沖縄自由民主党が絶対多数派であったし、政府の長である行政主席も与党議員の中から任命された。

もともと遺族会が主導的役割を果たし、琉球政府(以下「政府」と単にいえば「琉球政府」を指す)がバックアップした行事でり、翌年1963年には、主席がメッセージを送り、さらに次の年の1964年には、政府主催で、日本側からも米軍側からも代表者が出席する追悼会が行われる。1964年の慰霊の日に沖縄タイムスは次のように書いている。

ことしは政府主宰で、午後三時半から四時半まで糸満摩文仁高台の展望台広場で「沖縄戦戦没者追悼式」を行なう。式は大田主席の式辞ではじまり、日本政府、高等弁務官立法院議員上訴裁首席判事、沖縄遺族連合会会長、日本遺族会の追悼のことば、引き続き各界代表と、一般参列代表の献花があって幕を閉じる。

またこの年はじめて、「各戸は、喪章をつけた国旗を揚げる」という通達が出された。国旗とはもちろん日の丸のことである。今ではなかなか理解しづらい事実だが、日章旗を公共の建物に掲げる権利は、それを求める沖縄の人々に対し、1961年の高等弁務官布告で祝祭日に限り認められたばかりで、この日はそれが行使できる年に何度かの機会の一つだった(日章旗掲揚に関する規制が完全に撤廃されるのは1969年。)

こうした「慰霊の日」の制度化に、復帰協が、あるいは本土の左翼運動がどういう役割を果たしたかというと、ほとんどゼロに近いといっていいだろう。むしろ、なんらかのイデオロギー的齟齬があったかどうか、検討してみたほうがいいだろうが、これについても、漠然とした印象だが先鋭な対立や論争があったようにも思えない。実際のところは、同じ人間、たとえば学校の教師や公務員が、教え子や朋友、家族を追悼するために「慰霊の日」には官製の追悼行事に参加し、4.28には復帰協の一員として、政治行動に参加していたというところではないだろうか。慰霊は、官製とか左右とかということにに関係なく、素朴な住民感情に訴える形で受け入れられ、営まれていった。

ところで復帰協議会だが、これが発足したのが1960年の4月28日、そして最初の大規模な4.28集会が持たれたのが翌1961年で、「慰霊の日」が「法定休日」になる前年である。したがって「慰霊の日」と4.28は一年違いの生まれで並行して存在し、4.28が1972年の本土復帰によって、意味づけを失ったのに対し、「慰霊の日」のほうは残ったということになる。

1965年の「慰霊の日」から、日付が現行の6月23日になる。23日へ変更が決まったのは、同年4月9日の立法院の「住民の祝祭日に関する立法の一部改正」の可決による。この変更がなぜ行われたか、この4月9日に先立つ議論や、立法院での議事録を参照してみないことにはわからない。日にちの変更は、新証言による史実の見直しと聞いていたが、安保デーに合わそうという何者かの意図があったのだろうか。

この1965年4月9日の祝祭日改正は、これが沖縄史で有名なのは別に理由がある。それは、この改正によって5月3日を憲法記念日で祝日と定めたことである。記念されるべき憲法とは「日本国憲法」のことである。当時の沖縄には憲法はなく、日本国憲法の及ぶ領域でもなかった。占領状態にあって憲法がないために、アメリカ軍当局の恣意による基本的人権の侵害に対する守りを持たなかった沖縄の人々にとって、この祝日は、いつかこの憲法の庇護下に入るのだという意志をアピールする象徴的なものであり、この改正は、本土復帰の道筋に関する政党間の対立を越えて、全会一致で可決された(これからわかるように、本土復帰には、基本的人権や独立を保証されるために日本国憲法の庇護下に入れるという意味づけもあり、日本復帰の前後にはそれを祝して「憲法手帳」が住民に配られたりしたが、よもやそれから30年もたって、その庇護さえ、墜落してくる米軍のヘリの前には、破れ傘程度のものでしかないとことに気づかされるとは、この当時誰も思わなかったろう)。

憲法記念日を祝日に入れるという議案を提出したのは、11人の野党議員であると、その内の一人である人民党の古堅実吉氏(後に共産党衆議院議員)についての「しんぶん赤旗」の記事が伝えている。慰霊の日を6月23日にするというのも、その野党議員提出案に含まれているのだろうか?安保デーがらみの政治的意図があったのだろうか。議事録もそれに先立つ議論も利用できないかぎりこれ以上のことは何ともいえない。ただ、安保デーがらみだったとしたら、その意図が分かれば、与党議員の反対は必至だったはずである。本土の左翼勢力に影響された「左翼議員たち」が日にちの見直しを口実に、その見え見えの意図をカムラージュすることに成功したのだろうか。そもそも1965年に日本本土でも安保デーがどれほどの意味があったかの検討も必要かもしれない。

そもそも関係がないのか、偽装が成功したのかはわからないが、日にちが23日と改まった1965年の慰霊の日に対する沖縄タイムスの記事では、アンポのアの字もなく、慰霊祭は、前年までと同じように、政府と遺族連合会主導で日本政府からの参加を得て行われる。23日になったことによるイデオロギー的摩擦が伝えられる気配はない。沖縄タイムスで読めるのは、これといって批判的コメントがついているわけでもない牛島中将の靖国神社での慰霊の話や、元ひめゆり隊員の本土並み叙勲の話である。

「慰霊の日」が、「反戦デー」と呼ばれて登場するのは1969年のことである。各種年表や沖縄タイムスの記事を比べても、この年がはじめてのことであると言って間違いない。この年の慰霊の日の翌日に出された沖縄タイムスの社説では次のように述べられる。

社説 慰霊の日に意義加える 六・二三反戦平和の集い
安保と沖縄問題は、それ自体まったく別のものであるという意見がかなり聞かれるが、事実は二つを抱き合わせた大衆運動がつぎつぎ展開されている。
四・二八の沖縄デーにつづいて、六・一五集会、さらにきのうは沖縄戦終戦の日に雨の中を遺族団体による平和行進と平行して、反戦平和県民大会が行われた。
....
二十三日の「慰霊の日」に、ことしはじめてもくろまれた反戦平和県民大会も、その意味で、その日の意義をさらに一歩深めたものと考える。奇しき偶然かもしらないが、六月二十三日は日米安保条約が来年を期して再検討されるスタートの日である。
....
六・二三沖縄集会は、期せずして安保とは無縁の日でない日になったのである。これは決して、政党政派の対決抗争ではなく、無心に平和のみを意識するたくさんの市民の自覚の高まりによって、支えられているとみるべきだろう。

隠されたアジェンダでもない限り、この年初めて、4年前に6月23日と再定義された「慰霊の日」が、安保条約の発効日、この文脈でより正確にいうと、翌年にやってくる自動継続の日として、沖縄の人々に意識されるようになった。

そしてこの「反戦デー」は、これまで「慰霊の日」においては脇役であった、復帰運動・反戦運動に携わる人々の、「慰霊の日」の政治化による回収の試みであったといえる。それがアクティブに続くのが、安保継続の70年を経て、1972年の復帰実現まで。そして、「安保条約」に組み込まれたままの復帰の功罪をめぐる議論がひとまず沈静化し、ベトナム戦争終結という中で、「反基地」「反安保」「反ベトナム戦争」と結びついていた「反戦デー」としての位置づけも次第にイデオロギー的な先鋭さを失い、1977年の復帰協解散で、主要な組織的アクターを失う。一方、「慰霊の日」を「反戦」に結び付ける思想は、ちょうどその年に終了する「沖縄県史」編纂の過程を大きなきっかけにクローズアップされてきた「住民虐殺」「集団自決」への関心の文脈の中で、新たな意味付けを獲得するようになる。

1974年に「慰霊の日」を沖縄県条例によって定めたのは、過去10年以上にわたって記念されすでに定着していた追悼の日を、新しい国家体制に組み込まれることで失いたくないという意志の表れである。こうして新たに出発した「慰霊の日」が、すでにさらに30年以上にわたり続けられ定着していくことになる。62年の出発点と80年代以降の展開を考え比べてみると、「反戦デー」のエピソードを挟んで、二つの「慰霊の日」がある。前者が主に戦闘員を「戦没者」として、あるいは戦没者のすべてを戦闘員になぞらえて*1追悼する「慰霊の日」であったとしたら、後者は、一度注入された「反戦」のイデオロギーが、新しく掘り起こされた、住民と軍隊の関係についての歴史的事実の直視によって深められた普遍的な「慰霊の日」であるといえる。もし今そしてこの先「慰霊の日」がはらむ問題があるとすれば、この「普遍化」に伴う、希薄化、硬直化だろう。この問題については別に長いスペースが必要になるだろう。

※執筆の時間がずれこんだので実際にアップしたのは24日朝(中央ヨーロッパ時)

補論

「慰霊の日」が牛島中将が自殺したとされる6月22日ないし6月23日になっていることについて、現在の感覚から知的に批判するのはた易いが、これを決めた1960年代の初めに、沖縄の当事者にどういう選択肢があったかと考えれば、なかなか難しい問題がある。

沖縄戦の中で節目となる日付をあげていけば、1945年3月26日の慶良間島上陸開始を別とすれば、まず、4月5日(諸説あり)の「ニミッツ布告」がある。これは読谷村に米軍が「海軍政府」を設置し南西諸島全域において占領軍としてすべての権限を掌握するとの宣言である。第二次大戦の欧州戦線での連合軍による諸都市の制圧、「解放」について、各都市で「解放記念日」として祝われるのは、こうした一方的な「政権交替宣言」の日をもってすることが多い。が、沖縄は「解放」されたのではない。

次に来るのが、問題の6月22ないし23日の「牛島中将、長勇参謀長」の自殺である。これをもって、少なくとも本島においては、司令官の責任放棄によって、軍の指揮系統が崩れ、政治的な意味での「組織的」抵抗が実質的に終了した−−残りはトップからの指揮を欠いた残党の抵抗−−と解釈するのは無理ではない。ただし、物理的な戦闘の終了を意味しない。

米軍は7月2日に物理的な戦闘終結宣言を出しており、米軍サイドからみればこれも一つの節目だが、やはり一方的なものである。

8月15日は、宮古八重山などの先島地方においては意味のないものでなない。先島に駐屯する軍は、壊滅した本島軍とは別の本土からの命令系統で動いており、その命令系統にしたがって8月15日から数日たって終戦詔勅の知らせを受け取り、島内では8月末に「戦争終結に関する詔書の奉読式」が行われ、沖縄本島以外の日本各地で行われていた敗戦処理がタイムラグを伴って進んでいた。しかしこれは、主戦場の沖縄本島からは別世界のできごとである。

そして最後に、上で何度か触れられた、9月7日の「先島を守備していた第28師団の納見敏郎師団長らとスティルウェル大将の間で嘉手納の米第10軍司令部で行われた降伏文書の調印」である。最終的「休戦条約」をもって終戦日とするのは第一次・第二次大戦についての欧州の「終戦記念日」がそうで、この9月7日をもって「沖縄戦終結」とするのは、大田昌秀氏が上で指摘していたように最も「合理的」である。

さて、沖縄の人にとっての「慰霊の日」の選択という問題に戻れば、1960年代初めの「慰霊の日」の追悼のされかたを見てわかるように、この日の主役はまず、軍人や「ひめゆり部隊」や「鉄血勤皇隊」などの中の戦没者であった。善し悪しは別として、戦没者の追悼において、まず兵士の名を数え、刻みつけ、モニュメントをつくり悼むことを優先させるのは1945年には世界中どこでも普通だった。1960年の沖縄の人々がその発想に囚われていたとしても簡単に批判することはできない。現に日本全体が靖国でそれをやっている。

そして、住民虐殺の問題が掘り起こされてくるのは70年代のことで、それ以前はそうした話は少ない例外を除けば私的な圏を出なかった。兵士や「ひめゆり部隊」や「鉄血勤皇隊」の若者は、日本軍とともに戦っていたのであり、基本的には、戦没者は日本軍、あるいは准日本軍の戦死者であった。ほとんどの人が「本土ナショナリズム」を共有していた。60年ごろの沖縄の人々が、そうした戦死者を慰霊する節目として、日本本土にならって8月15日と等価のものを探そうとしたとき、司令官の死による軍の指揮系統の消滅というのが、最も近いものに感じられたことは論理的である。6月23日をもって戦闘がまったく終結した考える沖縄の人はいない。その後に起きた地獄が大きいことを肌身で知っている人も多い。しかし、軍と共に戦った人々が発想したとき、その日は、軍に見捨てられた日としても、節目になるものであったに違いない。

9月7日についていえば、当時の沖縄本島の人にとってこれが、意味ある日づけと考えられたどうか疑わしい。このとき沖縄本島では戦闘はほとんど終結しており、多くの人間は収容所で、生の別のフェーズを見ていた。9月7日のことをどのくらいの人が知ったのだろうか。米軍は宣伝したに違いないと思うが、体験談にもとづくその受容のされかたについては、調べてみる必要がある。あとから見ても、本島からすれば戦闘は終了し別のことがはじまっているのに、戦闘のない先島の軍隊にいた指揮官なるものがやってきて、文書にサインするというのは、むしろ自分たちを守らなくなった、日本軍の都合による遅すぎた事務的手続きくらいにしか感じられはしないだろうか。

合理的観点からいえば、この9月7日を慰霊の日とし、6月23日以降に殺されていった人々をより正しく偲ぶという考えに、私は賛成する。しかし歴史的事情から一度決まったもの、それにすでに長年の思い出が染み付いているものを、変えるには、相当なイデオロギー的決断がいる。はたして、「正しい歴史観」のもとに、40年以上も繰り返された初夏のサイレンの思い出や、摩文仁の丘への思いを、1945年の同じ季節に、そこで起きたことによって地獄を見た人々から引き裂くのが正しいかどうかについて私は躊躇する。8月15日の終戦記念日を、やはり合理的観点からミズリー号調印の9月2日にしようという提案や、沖縄の人々への敬意のために9月7日しようという提案がなされたとき、日本本土でどのくらいの人が賛成するだろうか。沖縄戦について、時間がたてば6月23日よりも9月7日というふうに変わっていくことは、可能だろうが、逆にそれは、人々の沖縄戦の思い出が知的なものに昇華されているときかもしれない。

*1:「きょう“慰霊の日”をむかえた。戦後十八年、二度と戦争を繰り返さないよう世界によびかける“平和祈念の日“である。この日は沖縄戦で散った二十万余りの英霊を慰める行事が全琉各地で催される。」(1963年6月22日、沖縄タイムス。強調は引用者)