政治的運動か虚無的反抗か(2/2)

Jean-Pierre LE GOFF −− 68年に比べたときの、あるいは70年代の高校生たちの闘争などに比べたときの、違いは明らかだ。68年の過激派学生はことばの祭典を経験した。そうして彼らは反乱の伝統に属したのであり、被害者意識やゲットーのロジックの中にはいない。人はどうしても新しい現象を古い枠組みの中で解釈しようとするものだ。80年代にバンリュウ職業訓練教育に携わっていた私は、当時からすでに自分一人ではどうしもようない現象にうろたえたものだ。それは、下落したセルフイメージが一部の若者たちの中に住みついており、それが攻撃性と絶え間のない騒がしさとして表現される。われわれが直面している課題をつきとめるのは容易なことではない。失業や将来の見通しというのはもちろん中心的問題だ。しかし、非社会化という問題があり、これについて対策をとる必要がある。暴力を振るうこれら少数の若者たちは自らにしか興味がなく猛り狂っており、絶望とニヒリズムをないまぜにしている。自分たちの住んでいるカルチエを破壊するというのは自己破壊のロジックだ。問題は原則や善意を大声で言い立てるだけでは解決しない。

Pierre ROSANVALLON −− それは社会問題の長い歴史そのものだ。『レ・ミゼラブル』でヴィクトル・ユゴーは暴動と反乱を対比している。暴動は破壊による混沌の状況であり、反乱は逆に、自己意識を持ち何かを建設しようとしている集団を未来に向かって政治的に駆り立てる瞬間だ。

Eric MAURIN −− こうしたことが起るのは民衆階級の中が分かれているということだ。一つの民衆階級一般なるものが存在するわけではない。民衆階級出身の専門的な職業訓練を受けていない若者たちは、商業やサービス業といった新しい雇用の中にある自分たちの未来が、第二次産業の中にいた自分たちの父親と同じではないということを知っている。こうした新しい雇用は、父親たちの代の雇用より、男性的な側面が少ない。今日の民衆階級の若者の間には恐らく男性特有の精神的動揺がみられる。発言することの不在は、発言するということが、今や支配的になっている価値体系と齟齬をきたしているからだ。サーヴィス経済においては、自らを個性化し、それを顧客それぞれの個性と添い合わせるという能力が重視される。労働市場に入ろうとする若者たちが受け入れるように要求されている価値体系は、個々人の個性による成功のそれである。この価値体系は、集団的な発言に結合力を与える価値体系と対立する。

Emmanuel TODD −− 私は、車が燃えるのを見たとき、いらついた。バスが燃えるのを見たとき、真剣に腹が立ってきた。幼稚園が燃えるのを見たときには、暗澹たる気持ちになってきた。しかしここで『レ・ミゼラブル』を持ち出すことは、19世紀の主題に戻ってしまうおそれ、つまり、反抗の概念から犯罪の概念へと移行し、勤労者階級を危険な階級と見なすおそれを示している。私はそこにわれわれの精神の退行を見る。それは犠牲者を社会的な罪人に仕立て上げようという試みだ。この数週間の出来事で私の印象に残ったのは、発言を失うどころか、自由と平等の原則を力強く起動させ、まず何より、自分たちを侮辱し、自分自身が郊外のごろつきのような振る舞った内務大臣のことばの暴力に反応した若者たちの姿だ。ここに見られるのは、ニヒリズムや非合理的行為、理由のない暴力ではない。そして、この動きに対し、右派政府は折れた。地域のアソシエーションに対する補助は復活し、治安対策第一の政策はともかくも−−そう期待するが−−捨てられようとしている。これらは、歴史的見地から見れば一貫性のある現象として記述されることになるだろう。

Pierre ROSANVALLON −− バンリュウと呼ばれる地帯は、あらゆる機能不全と問題とが集積する場所だ。このバンリュウの大反乱と時を同じくして非常に古典的な紛争、すなわちマルセイユ路面電車運転手たちの労働争議やSNCM(コルシカ−マルセイユの国営船舶交通企業)の争議が併存していることを忘れてはならない。フランス社会の問題は、この社会がいま時代遅れの部分と現代社会の内破に挟まれていることだ。他の多くの国ではそうではない。この点からみて、権力の媒介的存在の重大な問題がある。フランスは、もう機能しきれない時代遅れの代表システムと現代的な代表システムの不在との間にいる。その二つながらの表現が、国民戦線の台頭と古典的な争議だ。これがフランスを覆う危機的不安感だ。

Emmanuel TODD −−「ニューオリンズ効果」と呼べるものが[事件の解釈に]存在する。移民層出身の若者たちの状況はもちろん問題だ。が、フランス的な分析枠の中にとどまっている限り、現在の状況がフランスの文化に起因するということが見えなくなる恐れがある。セーヌ・サン・ドニは歴史に満たされた場所だ。そこにはフランスの歴代の王の墓を収めた聖堂があり、フランス共産党の活動の中心部であるというように。にもかかわらず、人はそこに肌色の濃い少年たちしか見ていない。他の国では、アラブ人と黒人どうしが石をぶつけあっている。フランスでは彼らは共同して警察に石を投げている。もちろんここには、社会環境の構造解体、失業、学業での落ちこぼれ、マグレブ・アフリカ系の家族の形態崩壊というようなものはある。しかしフランス的価値観もそこにある。この動きは非常にフランス的だ。それはフランス文化の中心に位置する。

Eric MAURIN −− そして、また一方、早期のおちこぼれというのはこれ自身が非常にフランス的現象だということにも注意すべきだ。フランスは、生徒の多様化を管理するための主要な手段として小学校や中学校での落第を採用しつづけているという点で、ヨーロッパの中では数少ない国だ。外国の専門家と仕事をしたことのある者なら誰もが、フランスの学校組識が、他のどこよりも、選別の組識だという事実におどろくだろう。