「この人なら知っています。沖縄の人だ」

関東大震災の時の朝鮮人虐殺事件に対する解釈が、映画『ホテル・ルワンダ』との関係で、論争になっているのを id:gachapinfan さん、id:travieso さんのところで知る。この映画も見ていなければ、論争のきっかけになった映画評論や複数いる論争参加者の記事もきちんと読んでいず、なんだかややこしいことになっている論争に参加する気はないが、このきっかけをとらえて、この事件に関して以前から気になっていた証言を、ある本から引用紹介することにしたい。コメントも論争の展開を追わずにひとりよがりに適当につけます。さて問題の本は、

著者の比嘉春潮は1883年沖縄生まれ。没落士族出身の知識階層に属し、小学校校長、新聞記者、県庁の役人を勤めながら、一方で社会主義運動に接近。1923年、40歳のときに役人をやめ上京し改造社の社員となる。編集者として生計を立てながら政治・社会運動、民俗学・沖縄研究に携わる。1947年沖縄文化協会の設立に加わり、晩年は沖縄学の研究に専念。1977年没。

比嘉春潮は上京して改造社に勤めだして半年もしない1923年9月1日に、芝にあった改造社の編集部で被災する。淀橋の倒壊しかけた自宅近くの広場で、その日から数日間友人たちと野宿する。文中に何度か出てくる饒平名君というのは、やはり沖縄出身で比嘉より前から改造社に勤めていた饒平名(永丘)智太郎(1891-1960)。彼は前年の第一次共産党結成に加わり党の中央委員であった(もちろん地下活動)。以下の引用(pp.108-115)では、新たに適当に段落分けを加えてある。

地震後の不安に加えて、朝鮮人が大挙して襲撃するという不穏なうわさが飛び、人びとの恐怖をかりたてていた。在郷軍人を中心に自警団が組識され、日本刀を差したのやら、竹槍をかついだ物騒なのがそこらを徘徊した。淀橋の原っぱでも自警団が出ていたが、ボーと鳴っている石油コンロが注目をひくらしく、しきりにわれわれのまわりをウロウロする。饒平名君が腹を立てたと見え、近づいた自警団のひとりをつかまえると、下から顔を覗き込んで、
「こいつ朝鮮人じゃないか」
と冷やかした。朝鮮人はいないかと探し歩いているのをつかまえて逆手をとったので、相手はいっそう硬化してしまった。

幾日かたって、もう家で寝るようになったある夜半、私たちは自警団の突然の訪問に寝入りばなを叩き起こされた。出ろというから、私がまず玄関に出た。饒平名君も起き出してきて、黙って後ろにすわった。
朝鮮人だろう」
「ちがう」
「ことばが少しちがうぞ」
「それはあたりまえだ。僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とはちがうはずじゃないか」

押し問答をしているうちに、隣りに間借りしていた上与那原という学生が出てきた。海軍軍医大佐で有名な人の弟で、沖縄にいたころアナーキスト・グループの中にいた人だ。彼も私の肩を持って、自分の知り合いの沖縄人だと弁明し、
「なにをいってんだ。日清日露のたたかいに沖縄人を朝鮮人といっしょにするとはなにごとだ」
と、いかにも彼らしくまくし立てたが、そのことばも聞かばこそ。かえって、
「こいつも怪しいぞ」
とおどかされてすごすごひき下がっていった。

私はこれは危ないと思った。なにしろ相手は気が立っているからなにをされるかわかったものではない。そこで、
「そうか、それでは警察へ連れて行け。そこで白黒を決めようじゃないか」
と持ちかけた。自警団の連中の間から、そうだそうだという声があがった。
それまで黙って聴いていた饒平名君、平良君、和木夫妻、私と、女一人をまじえた五人はゆかたがけのまま、ぞろぞろと表へ出た。和木君というのは、あとで「三田文学」の編集者になった慶応出の人で、夫妻ともだれが見たってチャキチャキの江戸っ子であった。

私としては、淀橋署に奄美大島出身の巡査がいるのを知っていたから、ここで事が面倒になるより、署へ行ったほうが安全と思ったのだ。ところが、五人がひっぱっていかれたのは淀橋署ではなく、近くの交番だった。

交番でも、同じ問答の繰り返しであった。ごたごたしているうちに、酒屋の親父とでもいったような腹のでっかい男が、
「ええ、面倒くさい。やっちまえ」
と怒鳴った。腰には不気味な日本刀をさしている。一瞬みなシーンとなった。ヒヤリとした時、早稲田の学帽をかぶった青年が、
「この人なら知っています。沖縄の人だ」
と叫んだ。私には見おぼえのない顔だった。彼はすぐ父親らしい男に、
「黙ってろ」
とどやしつけられた。

それでも、なんとかまあ淀橋署に行くことになった。雨上がりの日で、泥んこ道だった。私ひとりだけ足駄をはいていて、ひときわ背が高かった。ぞろぞろ歩いているうちに、まわりをとり囲んでいた自警団のひとりが、
「おい、沖縄人なら空手を知っているぞ」
と叫んだかと思うと、二人の男がやっとばかりに後ろから私の両脇を抱えた。和木君の細君は、
「ひどいわ、ひどいわ」
と抗議したが、私たちはそのままの姿で引き立てられて淀橋署に入った。

署へくればもう問題はない。丁重に扱われて、自警団にも帰っていいといった。知り合いの巡査というのは思想問題を扱う高等警察の人で、大杉栄の家でちょくちょく顔をあわせていたのである。彼はいろいろねぎらってくれたけれども、私たちとしてはそのまま帰るわけにはいかない。

大体、近所の連中もわれわれが朝鮮人ではないことを知っていたはずだ。社会主義者というので危険視されたにちがいないので、安心できない。私たちは淀橋署員に頼んで、隣近所に、私たちが危害を加えるようなものではないことをふれまわってもらった。

こういう出来事からもわかるように、実に物騒な状態だった。次から次へとデマが飛んだ。多摩川の方から二百人の朝鮮人が攻めこんでくるとか、どこそこでは交戦状態であるとか、あるいは毒薬を井戸に投げ込む、石油をかけて家を焼くから気をつけろとかいって、人々は疑心暗鬼に陥っていた。ある時は、私たちの近くの映画館で集会のあった時、だれかこの中に朝鮮人がいると騒ぎだし、会合は止められる。聴衆は一人びとり調べられる。夜おそくまで、便所の中や天井うらまでいたるところ捜しまわるという有様だった。またある時は軍人を数人乗せたトラックが通り過ぎたら、あれは擬装した朝鮮人だということになり、そこら中の自警団が追っかけていって調べた。

町の在郷軍人などといった手合いだけではなく、相当な知識層の人も同じような不安にとらわれていた。改造社では、地震直後の九月三日に目黒にあった山本社長の家で、今後の雑誌発行について会議をひらいた。その時、このいわゆる〝不逞鮮人〝の騒ぎが大きな話題になり、山本社長はもちろん、秋田忠義というドイツ帰りの評論家で相当教養もあり、視野の広かった人さえも鮮人襲撃を信じこんでいた。そして、会議の最中に、神奈川との境の橋を、朝鮮人が二百人ほど隊をなしてくるという噂が入り、会も解散ということになった。私たちが、線路伝いに一時間がかりで新宿までたどりつくと、こんどはそこで、い立ち去ったばかりの目黒では市街戦の最中だ、池袋でも暴動がおこっているなどと聞かされた。そんなばかなことを最初から信じることのできないのは、社では饒平名君と私だけだった。というのは、われわれは、かねて朝鮮の人たちとのつきあいもあり、彼らがそんな無謀なことをするとは信じられず、また武器がそう簡単に手にはいるものでもないと考えられたからであった。世間も騒ぎ、新聞も書きたてていたが、あの当時左翼の人々は、おそらく私たちと同じ見方をしていたと思っている。

比嘉春潮はまた、甥の比嘉春汀が震災以来行方になっているのに気づき心配する。あちらこちらの警察署を探し回り9月6日に、飯田橋の警察署に留置されているのを発見する。

彼は学校で地震に会い、飯田橋近くの友人のところへかけつけると、食べものがないという。急いで自分の家まで帰り、パンを買ってもどったら、もう友だちはもとのところにいない。パンを抱えてうろうろしているうちに夕刻になり、血迷った自警団にやられたのだ。最初、向こうからドヤドヤとやってきて「朝鮮人だ」と叫んでいるので、とっさにものかげにかくれ、いったんはやり過ごした。ところが一番後にいた一人が、ひょいとふり返り「ここにいた」というが早いか、こん棒でなぐりかかった。「ぼくは朝鮮人じゃない」と叫んだ時にはもう血だらけになっていたという。すぐに、相手にもまちがいだとわかったので大事にいたらなかったが、こんどは警察につかまってしまい、家もさほど遠くないのに帰してもらえない。

甥の春汀が留置されているのは左翼の活動家としてである。春潮は警察に釈放を要求するが、今外に出したらもっと危ないという警察の言い分になっとくして、その場はそのまま引き下がる。

私たちは、「フタリブジ」という電報を打つことができたが、不幸な目に会った人も多かったと思う。現に、知り合いの長浜という首里の青年は、深川の自動車工場に勤めていて、確かに地震翌日の二日にその姿を見た人がいるのに、ついに行方不明となった。殺されたとしか考えられない。戦前沖縄三中の校長になった豊川善樺君も、隅田川の橋の上で、自警団に朝鮮人でなければ「君が代」を歌ってみろと歌わされた、など、ほかにも危ない目に会った話はいろいろ聞いた。また、連日行方不明者の名が新聞に出た中に〝鮮人安里亀〝とあり、アンリキとルビをふってあるのを見かけた。私には、これは新聞記者が推測して書いたもので〝アサトカメ〝という沖縄人ではなかったかと思えてならぬ。
〝不逞鮮人〝騒ぎでは、日本人もずい分やられたらしいが、とくに沖縄人の場合、地方によっては強いなまりがあるから、逆上した自警団には見わけがつかず、犠牲になった者もあったはずである。


一読すればわかるように、直接の主要な標的になった朝鮮人ではないが、社会主義者としては標的にされる可能性があり、かつ、建前的には「皇国の民」ではあるがかといって100%同化した存在ともみなされていない当時の沖縄人という著者の特殊なそして微妙でもあるポジションがその証言を特徴づけている*1。この文は後年の回想記として書かれたもので同時代証言ではない。が、被害者に近い立場で事件に巻き込まれる一方で、直接の犠牲者に自らをアイディンティファイして事件の告発を行うものでもないという−−読みかたによってはかなり無関心とさえもみえる*2−−立場をとっているというその二面性が、研究者として晩年を過ごした著者が過去に距離をおきながら行う回想のスタイルともあいまって、記述にリアリティを与えながら、政治的回収につながる恣意性をかなりの部分避けさせているように私には思える。

この事件については立場によっていろいろ見方があると思うが、特殊ではあるが、その特殊さゆえに得難い一つの証言から、それぞれの立場なりに、いろいろな、そして無益ではない解釈が得られるのはないかと思い、かなり長い抜粋を試みた次第である。

私が関心を持つのは虐殺に参加した人たちの像である。状況の特殊性を割り引いても、どのような社会的、文化的風土が、それを作っていたのか。そしてどのぐらいの割合の人がこうした虐殺に加わったのか。被害者数をめぐる議論はたえないが、加害者数についてのデータはそれよりいっそう分からない。震災後の混乱の中とはいえ、そのあと法的にどのような議論があったのか。そんな議論は別に今さらしなくていいというほど国家としての日本の当時の文明度を今のわれわれが過小評価する必要はあるまい。大杉栄殺害の犯人とされる甘粕正彦らの裁判については知られているが、一般人で自警団に関わった人がどうなったかについては不勉強ながら分からない。ネットで見てもよく分からない。

また−−こちらが返事を書きかけになっている最近の id:swan_slab さんとのやりとりと少し関係するが−−ガチガチの官僚システムをもった国家主義的な体制として捉えられがちな戦前の日本がむしろ、特異な状況下とはいえこうした中間団体の超法規的な暴力活動を可能にし許すような国家権力のルーズな−−昔ふうの言い方では暴力装置を独占していない−−体制を持っていたというふうにも解釈できる。そしてこうした人々の活動を突き動かすものは100%、パニック下の防衛反応に帰すことができるかどうかというのも問うてみることができる。「おい、沖縄人なら空手を知っているぞ」ということで後ろから拘束するというのは、行動の原則において、途中から、目的(あることがらの検証とそれに基づく「制裁」)と手段(暴力の行使)の倒錯が起こっている。

この事件が国ぐるみの犯罪であることを証明しようとする努力は日本では主に左派陣営に属するようだ。これはこれで解明すべき点は多いと思う一方で、自警団のような組識で「活躍する」主体(社会的存在)や、あるいはそれを作るメカニズムが不問になっていけば、当時の日本のありかたについての批判的検討の大事なポイントが抜けてしまうのではないかと思う。こうした事件で殺人を犯した人々の行為をきちんと清算できないという当時の日本の社会のありかたが、その後、少なくとも1945年までの日本の進む道に必然的な関わりを持っていると考えてもよいのではなかろうか。国家のレベルではなく社会のレベルに批判の目を向けてもいいと思う。(旧)左翼が天皇制批判に固執することについて、それが自らの権威主義的体質を批判的に検討することを回避する道具にもなりがちだという指摘とも恐らく関係してくる。

自警団に捉えられた朝鮮人がだれかの機転で救われるというのは−−そのために行動する人がいたとして−−その可能性はかぎりなく低かっただろうと、上の証言を読めば、容易に想像できる。一方、比嘉たちは沖縄の人だったから、朝鮮人ではないという証明の「恩恵」に浴することができた。しかしその恩恵を受けるのでさえ、「黙ってろ」という人間の傍らに少しばかりの義侠心で「この人なら知っています。沖縄の人だ」ととっさに発言する人間が必要だったことになる。

*1:この記述について、難を逃れるために沖縄人として朝鮮人と自らを強く峻別しようとしていることについて批判的な意見をきいたことがあるが、こんな状況で著者には選択肢はない。ナチのユダヤ人狩りから逃れようとするユダヤ人がとる当たり前の行動は、自分がユダヤ人であることを隠し、ばれそうになっても自分はユダヤ人でないと言い張ることだ。

*2:この点については今はあえて立ち入らない

風刺画についての若干の資料

風刺画そのもの、図像資料についてまだ一度も触れていなかったので、古くならないうちにまとめておきます。

ムハンマドの図像について中世のものからから今回の騒動にまつわるものまでを集大成したサイト。預言者の図像化のタブーがイスラム圏においても必ずしも絶対のものでなかったことがわかる。閉鎖を恐れて多くのミラーサイトができている。

事件の発端になったユランズ・ポステン掲載の12の風刺画を紹介する上記のサイトのページ。あまり注目されていないが12のうちの1つ、ムハムマドという少年が黒板に「ユランズ・ポステンは反動的な挑発者」と書いている絵は、預言者を書くことを拒否した画家が新聞の注文を批判したもの。

問題の12の絵のほか、デンマーク原理主義団体が中東各国で配ったパンフレットに同紙に掲載されたデンマークで流布している*1という触れ込みで新たに加えられている、より刺激的な3つの偽画もそのあとに収録している。そのうちの1つのムハムマドを豚として描いたものは、ソースが明らかになっていて、まったくムハンマドと関係ないものを流用してそれにムハンマドというキャプションをつけたということがわかっている。恐らく他の2つも、ムハンマドと関係のないものの流用か、新たに描かれたものと類推される他の2つは米国の極右キリスト教団体が以前ネットで流布したものと同一であると報道されている(が、この報道の内容自体が未確認で仏語版の Wikipedia がこの報道を採用するのに対し英語版のそれは採用しない)*2これらの図像を準備したり問題の図にムハンマドというキャプションを加えたのが、パンフレットを作った人たち自身だったとすると、政治宣伝のために、イスラム教徒でありながら、預言者を侮辱する絵を作ることも辞さない相当のマキャベリストだったということになる。

問題の12の風刺画が、エジプトの新聞 Al Fager に2005年10月7日にすでに全部掲載されていたことを紹介する2月8日づけのエジプトのブログの記事。このブログ Freedom for Egyptians は、エジプトのフェミニズム民主化運動にコミットしているエジプト人女性によるものということだが*3、宗教的に敏感なラマダン(断食)の時期にこの風刺画になぜだれも反応しなかったのかと疑問をなげかける。また、欧州・中東で風刺画紛争が発火したあとの2月6日に同紙の編集者が、なぜ自紙で4か月前に掲載した絵が今ごろ騒動を引き起こすのか驚いていたと述べる記事を書いているというのを紹介する。また2月になって別の国営の新聞が再掲載を試みたが、今度は流通前に回収され、ムスリム同胞団などが、責任者の処罰を要求しているという話も。ただし私はアラビア語が読めないので、内容の保証はしかねる。


2005年にはデンマークの国内問題にすぎず、この絵が積極的に中東諸国に紹介されるようになって後も 2006年1月初めには紛争は収束しかけていたにもかかわらず、なぜ急に再燃したかについては、影の部分がいろいろとあり一筋縄ではいかない。アラビア語の理解と、イスラム圏諸国現地の政治事情やそこで1月、2月でおきたことについての具体的な情報抜きにはうかつなことは言えないだろう。イスラム系の人が書き込むフランス語のサイトを見ても、ヨーロッパと中東を離反させるアメリカの陰謀とか、イスラム教徒の暴力を誘発してイメージを落とすためのシオニストの宣伝活動によるものなどという破天荒な説が語られていたりと、あらゆる人が陰謀説を自分の都合のいいように利用しようとしたりするのでますます話がややこしくなる。
この絵についてのフランスのイスラム系の人々についての反応をまとめた2月19日付けのル・モンドの記事を shiba さんが訳しているが、反応はさまざまである。また2月8日に発表されたフランスの世論調査 La réaction des Français suite à la publication de caricatures de Mahomet (CSA/La Croix; PDF File)で、これらの絵に対するイスラム教徒の憤激を理解できるかという質問項目に対し、自らをイスラム教徒と規定するグループで、「理解できる・どちらかというと理解できる」と答えたものが69%、「理解できない・どちらかというと理解できない」と答えものが25%。一方また、上記の10月の時点でのエジプト紙での掲載の話からは(これが事実とすれば)、図像という対象に対する個人のあるいは集団の反応は、政治的な文脈あるいはメディアの状況が準備する心的フレームワークにも左右されることがうかがえる。

*1:問題のパンフレットは英訳とともにネットに出ているが、それを見ると、問題の偽画がユランズ・ポステンに収録されているとこのパンフレットは明示していない。むしろ他のデンマークの風刺紙 Weekendavisen に掲載されているようみせかけているように読める。ただしこの3枚がユランズ・ポステンに掲載されたという情報も流されたようで、ユランズ・ポステン自身がこの3枚を掲載していないとコメントしたところで話がややこしくなっている。

*2:2月22日14時訂正

*3:ブログの常アイデンティテイの真正さは確認できないが、少なくともブログは2005年6月から英語とアラビア語の2か国語で書かれていることだけはわかる

傷つける権利−−アヤーン・ヒルシ・アリ議員会見

15日ル・モンド(ネット版)に「私はイスラム離反者 Je suis une déssidente de l'Islam」というタイトルで掲載された、ソマリア出身オランダ人政治家アヤーン・ヒルシ・アリ Ayaan Hirsi Ali 氏のテキストを猫屋さんが翻訳している。これは、ベルリンで彼女が2月9日に行った記者会見のテキストで、原文の英語版は、2月10日づけのオランダの新聞 NRC Handelsblad に "The Right to Offend" というタイトルで掲載されている。

ムハンマド風刺画問題の、そしてその背後にある、欧州社会とその中・外のイスラム社会との関係の問題の複雑さを知るために、ぜひ読んでいただきたい。ただし、このテキスト自体がまた、問題の単純化を呼ぶ恐れもある。

10日づけのドイツの週間新聞 Die Zeit のネット版に、アヤーン・ヒルシ・アリ氏の会見を、彼女の以前からの発言やオランダ社会の中での立場をも紹介することで、いくぶんかの距離をとりながらうまく解説した記事が出ている。彼女の発言が提起する問題の複雑さをとりかこむさらに複雑な事情が理解できると思うので、上に紹介した彼女のテキストのついでに読んでいただければ幸いである。

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Das Recht zu kränken
傷つける権利

Von Katharina Schuler
ZEIT online, 10.2.2006

もしアヤーン・ヒルシ・アリが慎重な人だったら、そこに立っていなかったろう。その陰鬱な二月のある日にドイツ連邦プレスコンファレンスセンターで国内外のジャーナリストを前に、そして多くのカメラを前にして。もしアヤーン・ヒルシ・アリが慎重な人だったら、いまごろおそらく自分の子供の世話をしていたことだろう。自分の生まれたアフリカの国で、自分が選んだのではない男と結婚して。しかしアヤーン・ヒルシ・アリは慎重な人ではなかった。だから、彼女のことばには社交辞令や計算や遠慮はない。そのことばは、明快ではっきりして、そして挑発的でもある。

"Right to offend" −− 傷つけ、侮辱し、不快にする権利。右派リベラル政党の自由民主党に属するこのオランダの女性政治家は木曜日、風刺画紛争に対する自分の立場をこのように要約した。この権利なしには民主主義は成り立たないし、言論と報道の真の自由はないと彼女は考える。彼女によれば、預言者マホメットの風刺画を掲載したことは正しい。なぜなら、その諷刺画によってデンマークの新聞ユランズ・ポステンは、欧米メディアのしだいに強くなる自己検閲に抗議しようとしたからだ。彼女は、この諷刺画の一件に先立ついきさつに注意を喚起する。これは、マホメットに関する自著に挿し絵を描こうとする者を見つけられなかった作家の話であり、そしてそれがほんとうにそうであるのか検証しようと考え、そしてやっと描く気になった何人かの者を見つけることができた新聞の話である、と。後の成り行きはご存知のとおり。

これは、風刺画が書かれたいきさつを説明するにあたって最も好意的なストーリーではある。別のいくつかのヴァージョンもある。この新聞の外国人に敵対的な傾向、挑発趣味、これによって伸びた部数、そして、同じ勇気ある新聞がキリスト教を内容とした風刺画の掲載を−−読者を怒らせるからという理由で−−拒否したことなどをめぐる話だ。だがこのようにバランスをとったり、相対化したり、疑問を付したりすることは、アヤーン・ヒルシ・アリにとっては事の本質ではない。ぴったりした白い服に包まれた、その動きには神々しさをさえ感じさせる、光輝く闘志のようなこの細身の女性はひとつの使命を持っている。彼女は喚起し告発することを欲しているのだ。彼女はイスラム社会の暗い側面について世の人々に悟ってほしいと思っている。欧米の政治家やジャーナリストがイスラム教徒の傷ついた感情への理解を表明しているとき、彼女はその裏に臆病心と犠牲者に対する連帯への欠如を推測する。「言論の自由によって生きていながら検閲を受け入れているジャーナリストたちよ恥を知れ。これらの風刺画は必要がなかったのだ説明する政治家たちよ恥を知れ。『当店ではデンマーク製品は販売しておりません』という文句で宣伝をしているヨーロッパの企業は恥を知れ」と激烈なことばで彼女は述べる。

彼女がこのように容赦がないのには当然の理由がある。それは彼女自身のライフストーリーなのだ。ソマリアで生まれた彼女は5歳のときにクリトリス切除を受けた。イスラムの環境の中に育ち、宗教的な教育を受けた。「一日何度も私はユダヤ人の絶滅を神に祈った」とは後の彼女のことばだ。二十代のはじめに強制結婚を義務づけられる。が、オランダに逃れ、そこで家政婦、通訳として、またソーシャル・ワーカーとして働き、そこでまた新たな形で、多くのイスラム教徒女性の悲惨な境遇を知る。政治学を学び、2002年以来、イスラム教に批判的な本を何冊か書き、そのために死の脅迫を受けている。映画監督のテオ・ファン・ゴッホのために映画「服従」の脚本を書いたが、監督は映画の代償を死であがなうこととなった。アヤーン・ヒルシ・アリのほうがテロを免れたのは、すでに身辺警護を受けていたからにすぎない。彼女は身を隠した。そしてまた公の場所に姿を見せるようになった。彼女が特に避けたかった一つのことは、脅え屈することだ。「私はすでに自分の命を心配したことがある」と、彼女は木曜日に語った。そして言う。「しかし、私は沈黙しない」。

彼女の目に風刺画紛争がポジティヴな結果をもたらすと写っているのは、したがって驚くに値しない。イスラム教の非寛容な側面を批判的に描いたり分析しようとする作家や映画制作者、画家たちの間にどれだけの恐怖が広がっているかをこの紛争は明るみにしたと彼女は見る。この件はまた、自由な民主主義の原則を受け入れる用意のできていない「かなりの数のマイノリティー」がいることを明かにした、と彼女は言う。そして鋭くそして皮肉たっぷりに付加えた−−サウジアラビアのような国は、デンマーク製品ボイコットの自称草の根運動を支援しているが、その一方で、この国が、選挙の権利を求める運動その支持を受け入れることは絶対に有りえないだろうと。

アヤーン・ヒルシ・アリは傷口をかき回すことをいとわない。そうして彼女は多くのかつての同信者たちの間に広がる自己憐憫の情を批判する。彼女はイスラムに心情的には結びついていると自ら感じるが、自分を信者とは呼ばない。多くのイスラム教徒が自らを犠牲者だと見たがると彼女は言う。彼女の考えではこうだ。彼らは、自分の失敗を許すことができるように、世界じゅうが自分に敵対しているという感情を自らに育んでいる。しかし、欧州諸国へのイスラム系移民に関してまさに、世界が敵対しているなどいうことは多くのばあい当てはまらない。彼らは西洋において、他の宗教の信者がイスラム諸国で得ているよりも、はるかに多くの自由を得ている。

しかし彼女の考えはそこに留まらない。それはさらに先へと及ぶ。彼女は宗教の不可侵性そのものを批判するのだ。預言者が善い事を行い、人間を善行へと励ましたことを彼女は認める。にもかかわらず−−そしてこの点が彼女にとっての問題の核心なのだが−−預言者は、自分と同じ意見をもたなかったものに対し、尊重と感性を欠いていたと彼女は考える。彼女が望んでいるのは、啓蒙の光に照らされた(aufgeklärt)イスラム、自らを絶対視するのでなく、理性による批判に自らを置く一つの宗教としてのイスラムである。この点において彼女と伝統的なイスラム教徒の間の溝は、最も越え難く大きい。もっともその越え難さは、特にアメリカでどんどんと増えてくる原理主義キリスト教徒に対する溝と比較して大きいわけではない。

現在の紛争はアヤーン・ヒルシ・アリにとって民族的、社会的な背景を持つものではない。「これは理念の闘いだ」と彼女は言う。片方には啓蒙を通過した自由な民主主義。もう片方には不寛容な宗教的原理主義。そのさい民主主義は自らに対する批判の可能性をも前提とする。そのことはオランダの政治家である彼女も知っている。「私はイスラム教徒が諷刺画に対し平和に抗議することには何も反対ではない」と言う。いやそれどころか、それは彼女にとってまさに自らの考えだ。つまりそれは自由な意見の表明だからだ。しかしまた、「侮辱する」権利には境界がある、とも言う。その境界は法によって定められなければならない。侮辱されたと感じた者はまず訴えればよい。が、こうした討論を支える基礎、西洋社会のゲームの規則が論争の種になるべきではないと彼女は主張する。

批判的思考が必要だとあれほど強調するその彼女の世界像のなかになぜ盲点ができているかを理解するためには、彼女のライフストーリーを知る必要があるのだろう。例えば「アンチイスラムは存在しない」と彼女は言う。が、それには反論しなければならない。いや、それは確かにある、と。たとえばイスラム教徒だけを標的とする移民テストや、イスラム教徒と見なされるあらゆる人々を特に対象として、空港なり国境なりで、チェックが強化されていることがそれを証明する。そしてわれわれが今経験している対決は純粋な理念の争いといったものではない。彼女にも社会的、民族的な特定の背景はある。が、その限界はアヤーン・ヒルシ・アリの責任ではない。それは彼女がそのもとで生きているのと同じ圧力のもとでおそらく理解できるだろう。同時にまたそれは彼女を、イスラム教に対する別の視点からの議論よりも、偏見を強めることのほうに強い興味をもつすべての人々が歓迎するスター証人にもしている。

−−−−−−−−翻訳終り

  • フランスでの似たようなケースといえば "Ni Putes Ni Soumises 娼婦でも服従する女でもなく" という運動がある。他の国のケースでも声を上げるのはほとんど女たちだ。フランスでは、死の脅迫があるような激烈な対立とはなっていない。発言するほうの女性も、移民差別的な言説とより慎重に距離を置き、党派的にもどちらかというと左派とくに社会党よりである。一方、アヤーン・ヒルシ・アリ氏は、左派政党がイスラム系共同体の批判に及び腰だとして社民主義系の党から右派リベラルの自由民主党に移っている。移民の共同体が縦割りに併存しながら各共同体に対する最大限の寛容をうたうオランダのような行きかたと、個人を等しく共和国の理念のもとに教育し統合するフランスのやりかたの違いがあきらかにここに出ている(これは id:swan_slab さんの2月12日記事にも関係しまた別にとりあげることになると思う)。フランスのモデルは昨年までのイスラム・ヴェールの問題のような公権力と共同体の間の摩擦をうむ。一方、オランダのようなモデルでは、うまく行くときは、対立が共同体の存在によって隔離され抑圧されてているが、根本的な価値観の対立が一ったんあらわになるとき、より先鋭化するように思える。日本人が「共生」ということばを使うときどのモデルがイメージされているのだろうか。

ムハンマドの風刺画(2...の手前)

1の続きの2を書いていますが、なかなか時間がとれなくてテキストがうまりません。そこで簡単な骨子だけ、新刊予告風に公開します。文として埋まっているところも埋まっていないところもあり、このままだと一貫したものとして完成させるとまたゆうに一週間遅れになりそうです。論争ならば論が完成しないうちに手の内をみせるのは得策ではないのですが、何も論争をしているわけではないので、以下のようなことに考えをはせていただけたらということで、ざざっと出します。以下の主張をクリアーに打ち出した論を日本のネットで今のところ見ていないので、とくに1を読んでくださったかたが、この事件を別の角度から解釈するきっかけとなれば幸です。

  • 言論の自由の後退を意識しているかいないか。この20年間におきた宗教を前にした自由の価値の凋落、とくにブッシュのアメリカ以降の言論の自由の制限を真の脅威と感じられるか。自己検閲の増大を自分自身感じられるか感じられないか。マルチン・ニーメラーの詩をここで思い出す人思い出さない人。
  • 「非対称性」は二項対立ではない。多角形であり、入れ子構造である。一元的に単純化して観測した「非抑圧者」への心情的連帯を通じて自分が抑圧者へとなる危険性。多角形・入れ子構造の極めて複雑なフランスでの政治的選択、知的・倫理的エクササイズの難しさ。被害者意識ゲームのつりあげによる言論の窒息。
  • 「本質きめつけ主義 essentialisme」の罠。アクティヴな原理主義者のイメージを通して、イスラム教はこういうもの、イスラム系の人々はこう考えるという思い込みが、「イスラム系」の人々の多様な意見の広がりを圧殺し、穏健主義者の声を奪う危険性。フランスは燃えていない。「きみたちはヨーロッパ人ではない。ヨーロッパ人のように考える権利はない」。
  • フランス人はイスラム教に対し無理解・無神経か。フランスでのイスラム教に関する情報の多さを日本人は理解しているか、啓典の民とそうでない者の間の溝を日本人は意識しているか。
  • 日本式「オリエンタリズム・オキシデンタリズム」の安易さとその知的怠慢。
  • 諷刺画問題は対岸の火事か。第三者的審判としてでなく、日本の言論の自由とのかかわりで自分の問題として考えられるか。「他者の尊重」の甘い誘惑。読売新聞社説の危険性。ジャーナリストの連帯は日本にあるか。今の日本で天皇を諷刺できるか。ヘイトスピーチに寛容な日本の逆説的状況。言語の壁に守られている日本。あなたは某巨大掲示板の禁止が外国から要求されたら賛成しますか反対しますか。

そして、今日のハイライト記事

  • 2月9日づけの記事「ムハンマドの風刺画(1)−−フランスのメディアはなぜ火中の栗を拾うのか」の空白になっていた最後の節を追加しました。以前に読んで興味をもたれた方は、よろしければご一読ください。
  • コメント、トラックバック、ブックマークでのコメントありがとうございます。単独にお返事のできるものと、本論の続きににむしろ組み込んだほうがいいものがいろいろで、そのへんのあんばいをみながらこれから少しづつお返事させていただきます。
  • 記事の論旨に深く繰り込まずとも簡単にお返事できるコメント、TBにだけ、ここでお返事させていただきます。
    • temjinusさん、chrolynさん、hinakiukさん、kmiuraさん、hさん、lulianusさん、はげましていただいてありがとうございます。なかなかまとまった文として書く時間とエネルギーがないのですが、この件については、もう少し続けます。
    • 「メール来た♪」のゆかりんさん、「だれかぁぁぁぁ!!」元OLさん、お役に立てなくて申し訳ありません。本当はお役にたちたいという気持ちもあるのですが、人生はいろいろ難しいです。よいバレンタインを過ごすことができたことを祈ります。