ブイグ=TF1のソクプレスへの資本参入はお流れ

10日に紹介した「TF1。問題はコカコーラじゃなくて。」の続報。

Socpresse : Bouygues et TF1 rompent les négociations avec Dassault
LEMONDE.FR | 16.07.04 | 19h42

Bouygues-TF1-Dassault: oubliez les bans
La Une et sa maison mère renoncent à entrer dans le capital de la Socpresse.

samedi 17 juillet 2004 (Liberation - 06:00)

ル・モンドの見出しは「ソクプレス。ブイグとTF1はダッソーとの交渉を打ち切る」という普通のいい回しだが、リベラシオンは例によってことば遊びの多い表現を使う : 「ブイグ−TF1−ダッソー、予告公示は忘れてね。1チャンネルとその親会社はソクプレスへの資本参入をあきらめる」。合弁や合併、資本提携はフランスではいつも「結婚」にたとえられる。「予告公示 les bans」というのは結婚式前に市役所に一定期間張り出される結婚公示を指し、そこまで行ったのに破談ということを強調する。

交渉の両パートナーが詳細を明らかにしていないので内部情報による観測記事。実は両記事とも主要な情報源はカナール・アンシャネ。交渉は成立寸前まで行ったという。決裂の最も大きな原因にあげられるのが、ブイグ−TF1側がソクプレス株の先買権を35パーセントまで要求したのを、親会社のダッソーがいやがったというもの。他に、実はソクプレスの経営状態が透明でなく、思ったより経済的利得がないことをブイグ−TF1が気づいたというのやら(ル・モンドによるとダッソー側はソクプレスの詳しい収支決済書の公開を拒んだと)、EU委員会が独占行為として許可を出さないのではないかという懸念も生じたなどの理由があげられている。

◆追記(7月22日) この問題について、より包括的な背景解説は → http://mahamaha.cocolog-nifty.com/kyoyo/2004/07/post_22.html

Marie-L*** の「ごめんなさい」。

RER-D線事件の自称被害者からフランス一の女狼少年になってしまったMarie-L*** がテレビでごめんなさいのメッセージを読む。カメラは背中だけを写す。家族はちゃんと出てきて、特に母親は雄弁に娘の事情を弁護する。犯罪者であれ身内を最後までかばうのは自然の情に発するものだ。日本風の三面記事専門のワイドショーがなくてよかったとこういうときにつくづく思う。

処女証明書とソドミー

あらゆる恋愛関係は秘密にされなければならない。シテ citéの外であろうと男性と手をつないで歩くのを見られることは自分を危険にさらすことである。私たちはそうした地獄について[...]多くの証言を記録している。妹(姉)のボーイフレンドに仕返しをし、そのあと自分の妹(姉)を折檻する兄(弟)。そして 娘が確かに「過ち」を犯さなかったことを証明するために父親は医者に処女証明書を発行してもらう。いつの時代の話かと思うかもしれない。しかしこれが苦い現実なのだ。カルチエでは今日、何人もの医者が処女証明書の発行を専門としている。医者のある者は偽の証明書を発行するが、そうした医者の大部分がそれで娘たちを場合によっては悲惨な懲らしめから救うことになることを知ってそうするのだ (p.58)。

以前に若干触れた ファデラ・アマラ Fadela Amara の Ni Putes Ni Soumises (La decouverte, 2003)が語る今日のもう一つのフランス。「シテ」「カルチエ」というのは形容詞無しで移民層の多い社会問題多発地域の意味を含んで用いられている。ここに言うような処女証明書の話がどのくらい一般的かはわからないが、偽の処女証明書を発行すべきかどうかというのは、医師会の職業倫理のセミナーでも扱われるほどには問題になっているらしい。この問題を誇張するのは人種差別主義者の手口という主張もある。一方穏健派を標榜するイスラム系のサイトではこの習慣をやめさせるべく医者に働きかけるイスラム教徒の女性団体の話がのっている。

身内には処女性を要求しながら抑圧された性的欲望を満たそうとする矛盾に満ちた男たちの要請は次のような不思議な解決法を見出す。

ボーイフレンドにぞっこんの16や17歳の娘が、もしセックスをしないならば、捨てられるのではないかと脅えて語るのを聞くのは非常につらいことだ。...大部分の娘たちが処女を失わないという条件で性的関係を受け入け、定期的にアナル・セックスを行う。彼女たちは義務から行うそうした性関係から何の快楽も得ないと語る。...彼女たちは一つの規範−−結婚まで処女でいること−−と男性の欲望に服するためにそれに耐える(ibid)。

快楽を求めて開拓するならいいが、そうでないなら不幸だ。しかし、こういう話は扱うのは難しい。熱心さが昂じると、知らず知らずイスラム系移民への偏見を宣伝する向きの片棒をかつぐはめにもなる。かと言って知らずには済まされないと訴える人々もいる。

スカーフとセックス

上のような性をめぐる抑圧の話は、68年以降の文化に慣れたフランス人を本能的に憤激させ、恐怖させるものがある。今日のフランスの女性に対する正統的エロティズムはたぶん、ギャラントリーの対象としての女性という古い伝統に起源を持つイメージと、68年以降の性革命の文化で解放された女性という比較的新しい伝統からくるイメージの複合からなっている。そんな中で、人は(男も女も)、女性が実質的(特に経済的)に差別されているという事実*1によりも、「自由な」性愛の対象としての「自由な」女性の性的魅力が奪われている女性のイメージにより敏感に反応し、嫌悪感を抱く。

イスラム・ヴェールをめぐる議論にフランス人がこれほどに熱心になるのは、これが政治的な問題であるばかりではなく、現代のフランス人の文化的自己アイデンティティにもかかわる性愛をめぐる問題でもあるからだろう。ここには単なる男女差別という問題意識を超えるものがある。スカーフの問題の本質に、セックスの問題、特に、集団間での女性の交換としての結婚の問題があることをはっきり指摘したのは、フラシンス・フクヤマだった。今年の2月4日づけのル・モンドに寄せられた「ヴェールと性の管理 Voile et contrôle sexuel」と題する文章*2で、彼は次のように言う。

伝統的なイスラム教徒は、自分たちの娘をベールで区別し、そのヴェールで彼女らが非イスラム教徒に対し性的にアクセス可能でないことを示すことにこだわるという点において、思われているより周到である。

Les musulmans traditionalistes sont plus astucieux qu'il n'y paraît lorsqu'ils insistent pour distinguer leurs filles avec un voile qui signale qu'elles ne sont pas sexuellement disponibles pour des non-musulmans.

temjinusさんが精力的に紹介してくれているエマニュエル・トッドは10年ほど前に、 mariage mixte 混合婚(「国際結婚」「異なるエスニー集団の出身者間の結婚」「異人種間結婚」)の比率がフランスで欧州のどの国に比べて飛びぬけて高いという事実によって、フランス式の移民の同化プロセスの特徴を明らかにした。混合婚が、常に移民を受け入れながらも国民統合を保証するフランス的解決の柱の一つであるとしたら、その障害として働くと無意識にでも受け取られるヴェールが「脅威」と人々に感じられるのは無理もない。少数集団には混合婚をしない自由もあるといえばそれまでだが、そうした自由はフランス人の自由観になじまない(少なくともこれまでのところは)。Ni Putes Ni Soumises では1990年代に起った共同体への回帰現象の中で「混合恋愛」自体が難しくなる空気の変化を証言している。これは実際に最近の統計データで確認できるものだろうか。調査もかなり困難だと思うが。

*1:フランスのフェミニストたちが強調するように、実質的な男女平等という意味ではフランスはヨーロッパの中で遅れてやってきた国であり、決してチャンピオンではない。議員の数、経営者の数で見たときの遅れなどはよく引き合いに出される。制度的にもナポレオン法典の影響が長く残り、近い過去にふりかえって極端な一例をあげれば、結婚した女性が夫の同意なしに働いたり、夫の許可なしに自分名義の銀行口座を開く権利を明白に認められたのは1965年に民法が改正されてからのことだ。

*2:ル・モンド掲載のものは有料記事になっているが、コピーが次の→サイトで読める