バンリュウの危機とは何か?(リベラシオン)

11月21日のリベラシオンに掲載された「Quelle crise de banlieus ? バンリュウの危機とは何か?」と題する座談会記事を翻訳紹介する。

Pierre ROSANVALLON, Jea-Pierre LE GOFF, Emmanuel TODD, Eric MAURIN という4人の社会学系の研究者が参加して11月14日(当日のシラク大統領演説の前)に行われた。記事全体は次の4つの内部見出しで区切られている。

  • 政治的運動か虚無的反抗か? (Mouvement politique ou révolte nihiliste ?)
  • フランスの危機の新たな症候?(Un nouveau symptôme de la crise française ?)
  • 共和国モデルの終焉? (La fin du modèle républicain ?)
  • サルコジ、救い主それとも騒動の扇動者? (Sarkozy, sauveur ou fauteur de troubles ?)

4つに区切ったそれぞれもかなり長いので、その1項を2つか3つほどに区切った分を1回のエントリーとして、1日に1つ分くらいづつアップする。この日付の日記に上から下へと付け加えていくことにする。

視点の違う4つの意見が共通のサブテーマのもとにたたかわされているというのが、「燃えるバンリュウ」に対するフランスの知識人の多様な観点を紹介するのにうってつけのものとしてこの記事を選んだ理由である。フランスの人文・社会学の複数の潮流が1人の論者に流れ込んでいて、それが4人分合わさったこの座談会は、あらゆる潮流の交差点の様相を呈しているように見える。もちろん極端に単純化されたナイーブな「移民問題」論者や「反植民地主義闘争」論者はいない。

4人の論者の紹介は今のところはつけない。むしろ先入観なしに、その意見を読んで、それぞれが立つ基盤を読み取ってから、その著書やバックグラウンド、政治的ポジションなどを調べたほうが面白いと思う(もっともE.Toddはよく知られているが)。読んでいるうちに、各論者のこの問題に対する政治的ポジションははっきりとわかるが、興味深いことに、必ずしも一般的に各論者に帰せられている政治的傾向とそれが必ずしも一致するとは限らない。逆に言うと、この問題に対する態度が、各人の根本的な政治的傾向の試金石となると考えてもいい。

訳はいつものようにかなり敷延したものとなっている。気になる方は原文を参照されたし。

重箱の隅をつつくような翻訳論争は避けたいので、翻訳に関しては寛容の精神をお願いしたいが、どうしても我慢できない誤訳があるという方はコメント欄でその旨指摘されたし。

4つも観点があるので、フランスの今回の騒動だけに限らず、フランス社会全体の問題や、日本の状況にからめた話などについて、いろいろとアイディアを刺激するのではないかと思う。それらをディスカッションするためにコメント欄を自由につかっていただきたい。ただし私は、当面訳に専念したいので、こまめにお返事ができるとは限らないとあらかじめお断りしておく。コメント欄が長くて錯綜してきたら、別ページを使うなど、そのときに新たな手段を考えたいと思っている。

政治的運動か虚無的反抗か(1/2)

Pierre ROSANVALLON −− 3段階の理解のレベルを区別しなければならない。まず、事件の具体的側面(反抗・暴力の現実的展開)、バンリュウの一般的社会状況、そして今フランスを覆っている危機的不安感だ。事件自身は低年齢層の若者たちの行動、極めて暴力的で、それ自身に意味づけを持たない行動に結びついている。しかしながら、現在の運動を形容するのにニヒリズムということばが適切かどうかは疑問だ。この運動は明らかにことばの不在によって性格づけられており、語るべきことばを見つけられない人々の社会層に発している。1968年の五月革命と逆に暴力が発言を代用する。歌やラップを別にすれば言語で語ることは見られない。バンリュウの世界全体が語るべきことばを持たす、語ろうとするものは暴力という方法を用いる。住民たちの社会的沈黙は、ひいては、フランス社会自体に広がる、自らを理解させ自らを語ることことへの困難感に結びついている。そうしてわれわれは、幾重にも入れ子になった沈黙を前にすることになる。つまり、政治前的沈黙(17歳の若者たちにどうやって政治的意識が求められようか)、彼らの社会層の社会的沈黙、フランス社会全体の社会的沈黙だ。EU憲法国民投票へのノンのようなわれわれがこれまで経験した諸々の大きな出来事は、これも、沈黙が何かを表現しようとしてそれぞれに引き受ける形だ。こうした出来事は、発言行為ではなく、相手に語り自分を語ることの困難な状態へさらに落ち込むこと、そこから抜け出せなくなることだ。フランスを覆う危機的不安感は、そうした意味でいうと、空虚の表現、未来へと積極的に向かっていくことの困難さ、明確な地平線の不在だ。

Jean-Pierre LE GOFF −− 問題になっている事がらを正確に限定すべきだ。バンリュウの騒動は「運動」ではなく、住民大分部の生活を反映しているものではない。一部少数の若者グループらの反抗は、少なくとも、政治前の段階のものだ。たとえそこから政治的な反響があるにせよ。バンリュウの住民たちは一つの問いを発しており、われわれもそれにきちんと向きあわなければいけない。つまりこれらの若者たちは一体なにを考えているのか、ということだ。この現実に正面からぶつかるためには、視点を正しいほうに移動さなければいけない。つまり、本能的欲動にしっくりとはまる言語表現を見出すことの非常な困難、欲動をを行為にうつしてしまうことがそこに見られる。私の考えでは、このうち続く暴力の中で、われわれが直面しているのは、野蛮な破壊行為であり、これは社会・政治運動家がいだいているシェーマを揺るがすものだ。この破壊行為が極端かつ暴力的な形で凝縮しているのは、失業の問題、そして脱縁、つまり家族構造の空洞化−−「片親家庭」などと婉曲に呼ばれているわけだが−−の問題、そしてさらには、階級的帰属、国民国家への帰属の解体の問題だ。1930年代には、貧乏で失業状態にあっても、人は種々の集団の中にその場所を持ち、その反抗心をうまく制御することができた。学校や自分の住む地域を破壊し、バス、隣人の自動車を破壊する若者たちの徒党のばあい、もはやそれはあてはまらない。こうした現象が可能になった条件について問題をたてる以前に、まず、現実を見つめなければならない。もう長年現場で働いているソシャルワーカーたちと同じように。そして左翼が、現実の否定、そしておめでたい寛容第一主義と手を切るべき時がきている。

Emmanuel TODD −− フランスは、他の発達した社会の大部分と同じように、不平等の拡大、しかも客観的経済データの示すところを越えて進んでいる不平等の拡大を体験している。社会は今、新しい形の個人主義と結びついた不平等な新しい社会的価値体系の台頭の力にひねり苦しめられている 。フランスのような国では、アメリカではうまく通るようなことが、平等主義的要素を大きく含む人類学的基底と衝突する。この平等主義的価値が、不平等主義的価値の台頭と、反発的反応を起こす。この二つの価値の混在の場となる様々な社会的集団が次々と出てきて反応していくさまは、そのことによって説明できる。今日、われわれの目の前に現れたのは、バンリュウの若者たちで、その平均年齢は17歳だ。彼らは、全盛時代の共産党の熟練労働者よりも、1970年代の高校生たちに似ていると見るべきだ。平等主義的な価値感がそこにははっきりと表れている。私はヨーロッパおよびアメリカへの移民の状況についての比較研究をしたことがある。そこから分かったのは、フランスの状況はたいへん独特で、マグレブあるいはアフリカ出身の家族がフランス的価値体系への同化によって構造崩壊を起こすのと、混合婚が高率だという現象の両者が見られる。バンリュウの炎上は、私から見ると、平等を求める抗議行為だ。この点から見て、これらの若者たちは、政治的価値観においては、完璧に同化している。そして歴史の教えるところでは、希望を伴わない反抗はない。

Eric MAURIN −− 17歳で学業を終えた若者たちの社会的意識をよく見てみなければならない。暴力行為に参加したものも参加しなかったものも含めて。彼らは皆共通して、極めて困難な、そして傷痕の残るような体験をしている。集団からの排除の体験に続き、中学で学業の失敗を体験する。1968年の五月革命は、中産階級の師弟に対し真の大学教育が閉ざされているという事実に刃向かって、中産階級の落ちこぼれが反抗したことからはじまった。今日、状況はまったく別だ。つまり、民衆階級の子供たちが中学、高校の学業で経験する大きな困難が問題なのだ。この困難は、一部には、貧困家庭の子供たちの極めて不安定な住環境、生活環境からやってくる。これは教育省だけで解決できる問題ではない。住居の部屋不足の問題は、こうした子供たちの4人に1人近くが蒙り、思春期に達してからの落ちこぼれの最大の原因となているが、それをこれまでの住宅政策は改善しなかった。都市政策もまた、居住圏の隔離現象を改善しなかった。貧困な家庭の子供たちは、今日、貧困率が他の場所より4倍高い地域に住んでいる。落ちこぼれの仲間たちに囲まれて大きくなりながら、それなのに学校に対しなんであれポジティヴな態度をとるというのは、おそろしく困難な話だ。


以上、4人の論者がそれぞれしゃべり終ったところまで。「政治的運動か虚無的反抗か?」は次のエントリーにも続く。

政治的運動か虚無的反抗か(2/2)

Jean-Pierre LE GOFF −− 68年に比べたときの、あるいは70年代の高校生たちの闘争などに比べたときの、違いは明らかだ。68年の過激派学生はことばの祭典を経験した。そうして彼らは反乱の伝統に属したのであり、被害者意識やゲットーのロジックの中にはいない。人はどうしても新しい現象を古い枠組みの中で解釈しようとするものだ。80年代にバンリュウ職業訓練教育に携わっていた私は、当時からすでに自分一人ではどうしもようない現象にうろたえたものだ。それは、下落したセルフイメージが一部の若者たちの中に住みついており、それが攻撃性と絶え間のない騒がしさとして表現される。われわれが直面している課題をつきとめるのは容易なことではない。失業や将来の見通しというのはもちろん中心的問題だ。しかし、非社会化という問題があり、これについて対策をとる必要がある。暴力を振るうこれら少数の若者たちは自らにしか興味がなく猛り狂っており、絶望とニヒリズムをないまぜにしている。自分たちの住んでいるカルチエを破壊するというのは自己破壊のロジックだ。問題は原則や善意を大声で言い立てるだけでは解決しない。

Pierre ROSANVALLON −− それは社会問題の長い歴史そのものだ。『レ・ミゼラブル』でヴィクトル・ユゴーは暴動と反乱を対比している。暴動は破壊による混沌の状況であり、反乱は逆に、自己意識を持ち何かを建設しようとしている集団を未来に向かって政治的に駆り立てる瞬間だ。

Eric MAURIN −− こうしたことが起るのは民衆階級の中が分かれているということだ。一つの民衆階級一般なるものが存在するわけではない。民衆階級出身の専門的な職業訓練を受けていない若者たちは、商業やサービス業といった新しい雇用の中にある自分たちの未来が、第二次産業の中にいた自分たちの父親と同じではないということを知っている。こうした新しい雇用は、父親たちの代の雇用より、男性的な側面が少ない。今日の民衆階級の若者の間には恐らく男性特有の精神的動揺がみられる。発言することの不在は、発言するということが、今や支配的になっている価値体系と齟齬をきたしているからだ。サーヴィス経済においては、自らを個性化し、それを顧客それぞれの個性と添い合わせるという能力が重視される。労働市場に入ろうとする若者たちが受け入れるように要求されている価値体系は、個々人の個性による成功のそれである。この価値体系は、集団的な発言に結合力を与える価値体系と対立する。

Emmanuel TODD −− 私は、車が燃えるのを見たとき、いらついた。バスが燃えるのを見たとき、真剣に腹が立ってきた。幼稚園が燃えるのを見たときには、暗澹たる気持ちになってきた。しかしここで『レ・ミゼラブル』を持ち出すことは、19世紀の主題に戻ってしまうおそれ、つまり、反抗の概念から犯罪の概念へと移行し、勤労者階級を危険な階級と見なすおそれを示している。私はそこにわれわれの精神の退行を見る。それは犠牲者を社会的な罪人に仕立て上げようという試みだ。この数週間の出来事で私の印象に残ったのは、発言を失うどころか、自由と平等の原則を力強く起動させ、まず何より、自分たちを侮辱し、自分自身が郊外のごろつきのような振る舞った内務大臣のことばの暴力に反応した若者たちの姿だ。ここに見られるのは、ニヒリズムや非合理的行為、理由のない暴力ではない。そして、この動きに対し、右派政府は折れた。地域のアソシエーションに対する補助は復活し、治安対策第一の政策はともかくも−−そう期待するが−−捨てられようとしている。これらは、歴史的見地から見れば一貫性のある現象として記述されることになるだろう。

Pierre ROSANVALLON −− バンリュウと呼ばれる地帯は、あらゆる機能不全と問題とが集積する場所だ。このバンリュウの大反乱と時を同じくして非常に古典的な紛争、すなわちマルセイユ路面電車運転手たちの労働争議やSNCM(コルシカ−マルセイユの国営船舶交通企業)の争議が併存していることを忘れてはならない。フランス社会の問題は、この社会がいま時代遅れの部分と現代社会の内破に挟まれていることだ。他の多くの国ではそうではない。この点からみて、権力の媒介的存在の重大な問題がある。フランスは、もう機能しきれない時代遅れの代表システムと現代的な代表システムの不在との間にいる。その二つながらの表現が、国民戦線の台頭と古典的な争議だ。これがフランスを覆う危機的不安感だ。

Emmanuel TODD −−「ニューオリンズ効果」と呼べるものが[事件の解釈に]存在する。移民層出身の若者たちの状況はもちろん問題だ。が、フランス的な分析枠の中にとどまっている限り、現在の状況がフランスの文化に起因するということが見えなくなる恐れがある。セーヌ・サン・ドニは歴史に満たされた場所だ。そこにはフランスの歴代の王の墓を収めた聖堂があり、フランス共産党の活動の中心部であるというように。にもかかわらず、人はそこに肌色の濃い少年たちしか見ていない。他の国では、アラブ人と黒人どうしが石をぶつけあっている。フランスでは彼らは共同して警察に石を投げている。もちろんここには、社会環境の構造解体、失業、学業での落ちこぼれ、マグレブ・アフリカ系の家族の形態崩壊というようなものはある。しかしフランス的価値観もそこにある。この動きは非常にフランス的だ。それはフランス文化の中心に位置する。

Eric MAURIN −− そして、また一方、早期のおちこぼれというのはこれ自身が非常にフランス的現象だということにも注意すべきだ。フランスは、生徒の多様化を管理するための主要な手段として小学校や中学校での落第を採用しつづけているという点で、ヨーロッパの中では数少ない国だ。外国の専門家と仕事をしたことのある者なら誰もが、フランスの学校組識が、他のどこよりも、選別の組識だという事実におどろくだろう。