祭、コミュニオン、共和国

temjinusさんがつけているトッド Emmanuel Todd の「狂人とプロレタリア」読書日記から、気になる引用パッセージ

「フランス人、イギリス人、スエーデン人、ドイツ人はまた、祭りの感覚と大衆的共感を取り戻す一歩手前にもいない。 non plus la veille de redécouvrir le sens de la fête et de la communion populaire.」


「取り戻す」というのは以前持っていたということだろうか。仏英瑞独というのは単なる例だろうか、それとも他のヨーロッパ人はこの感覚を知っているということだろうか。十全に取り戻すときの具体的イメージはトッドにとってどんなものだろうか。はやくこの本を手にとってみたいものだ(官僚制についての挑発的な解釈も面白い)。


7月14日の酒と騒ぎのせいか、以前読んだこんなフレーズを思い出す。

なんだって!共和国にスペクタクルは邪魔だというのかい?とんでもない、大いに必要だよ! スペクタクルが生まれたのは共和制の中でだ。共和制の下でこそ、スペクタクルは本物の祭の空気とともに輝いて見える。たがいに愛し合い、いつまでも結び合わされているための理由をいくつも持つ人々にこそ、他のどこの人々よりも、頻繁に集い、お互いの間に快楽と歓喜に満ちた優しい結びつきを作り出すことが必要だ。J.=J.ルソー「スペクタクルについてのダランベールへの手紙」。

Quoi ! ne faut-il donc aucun spectacle dans une république ? Au contraire, il en faut beaucoup. C'est dans les Républiques qu'ils sont nés, c'est dans leur sein qu'on les voit briller avec un véritable air de fête. A quels peuples convient-il mieux de s'assembler souvent et de former entre eux les doux liens du plaisir et de la joie, qu'à ceux qui ont tant de raison de s'aimer et de rester à jamais unis ? (Jean-Jacques Resseau "Lettre à d'Alembert sur les spectacles")


こんな考えにそそのかされて、ちと方向が違ったためにドイツ人は一度酷い目にあい(peuplesを「人々」でなく「諸民族」「諸国民」とするとぐっと昔のドイツ風の響き)、とぱっちりで他の人々はもっと酷い目にあった。フランスでは、たくさん首がとんだが、差し引き勘定は明らかに+(と思いたい)。ギリシアにルーツを求めるしかたもいろいろだ。この後に続く部分も問題含み。引用はP.ラクー=ラバルト Philippe Lacoue-Labarthe の Poétique de l'histoire (Galilée, 2002)からの孫引きだが、一見注釈のようなことをやりながらこの人はいつも驚くほど大胆な系譜、問題のたてかたを引っ張り出してくる。