希望の担い手としてのノン

私はノンに投票する...それは希望の担い手としてのノンであり、未来をわがものに取り返すためのノンだ。
Je voterai non, ....C'est un non porteur d'espoir et de réappropriation d'avenir.

欧州憲法条約批准国民投票の投票日が2週間以内に迫って、世論調査でノンがもり返したことを受けて書かれたル・モンドの5月17日の社説 『ノンの優勢』"Le non en tête, Edito du Monde 17.05.05"に寄せられた読者からのコメントの一節である。

この「希望の担い手としてのノン Non, porteur d'espoir」という表現は5月になってから、しばしば耳にしたり目にしたりするようになり、投票直前のキャンペーンでは一種のスローガンにさえなった。ウィ派から投げかけられた「(開かれた欧州への)恐怖からのノン」「(ナショナリズムへの)ひきこもりのノン」という批判、ネガティヴなレッテルに対抗して、ノンのポジティヴなイメージを強調するのに役立ち、共産党トロツキストその他の極左会派、反グローバリズム派団体すべてが共有する合い言葉となった。

私が、これは本格的にヤバイ−−つまりウィを期待していた立場から−−と感じたのは、この「イケイケのノン」を目の当たりにしだしてからである。ノンが不満のはけ口としてとどまっている間は、実際の投票行動において棄権という形をとる場合もあるが、これにポジティヴな情緒的意味付けが与えられれば、それに突き動かされたフランス人をもう止めるものはない。たとえ向こうに何があるか定かに見えなくても、そこに光があるというイメージをもてば、巨大な不満のエネルギーはそこへ向かって突進していく。

上の読者のことばの「未来をわがものに取り返すためのノンだ」がよく示しているように、そこで問題になっているのは、「剥奪されていた権力の回復」であり、ノンはそのためだけに正当化される。裁可をもとめられているテキスト=体制(憲法=コンスティテューション)の内容とは関係がない。「造反有理」の論理に何か近いものがある。しかし、EUの未来に対する選択がこれまで人々に奪われていたのはエリートたちのせいだけかというと、去年6月の欧州議員の選挙のフランスでの棄権率が55%という数字を見るとき、そう単純な話ではい。EU建設とフランスの「民衆」の間の疎外関係には、一種の共犯関係があったともいえる。もちろんその悪しき共犯関係が今度清算されたのはそれはそれで吉とすべきだし、この新たな希望に満ちた蜜月が続き、回復された権力の下に新しい憲法が建設される力になればいいのだが、はたしてその現実によって強いられた楽観を抱き続けていいものか...

id:flapjack さんの紹介(id:flapjack:20050605)でスラヴォイ・ジジェクの論説「欧州憲法は死んだ。まともな政治よ、永遠なれ The constitution is dead. Long live proper politics The Guardian Saturday June 4, 2005」を知り、読んだのは、そんな思いとともに、ノンの論理の中から、私なりの「希望」を−−一種の逡巡とともに−−探しはじめた矢先だった。flapjack さんは最初に「かなりポレミカル」と評していて、一般的な文脈では、間違いなくそうであり、それゆえに私もあらためてここで取り上げるのだが、一方で、今のフランスでの論争の中におけば、まず第一印象はデジャヴュである。象徴的なところを、flapjack さんの訳(このあたりは要約というより忠実な訳になっている)から抜き出せば −−

そういうわけで、政治的エリート、メディアエリートではない人々にとって、この否決は希望の表現である。政治はまだ生きているという希望、なにがあたらしいヨーロッパであるべきなのかについての議論はまだ続けられるという希望だ。

ジジェクの論を全部追いながらの逐一の説明は省略するが、その論考は、基本的には、最初に紹介した共産党その他の左派のノン派が投票前に展開した主張(そして勝利のあとその正統性を自己確認するための主張)と一致している。

ジジェクは フランスの左翼ノン派の呼びかけにこたえた「欧州左翼識者から − あなたがたのノンは私たちのノン Personnalites europeennes de gauche : Votre non est notre non」の署名者に名を連ねているので、陣営選択としては「あと出しじゃんけん」ではない。ただし、このメッセージには、署名者たちが独自にまとめた声明文がなく、呼びかけへの連帯以上のことはわからないので、ジジェクがいかなる論理に署名したのかどうかはわからない。遡って、ジジェクが独自に、欧州憲法条約のフランスの批准について、投票日前に何か文章を発表したかどうかは私にはわからない。

関連して私が唯一目にしたのジジェクの文章は、今年の4月に憲法批准論争ブームにあやかって(たぶん)急遽出版された論集『Que veut l'Europe』(Ed Climats、2005)中の書き下ろしの巻頭論文だけである。これは実際には過去数年の論文を英語から翻訳したもので、その中にはオリジナルがネットで読めるものもあり、巻頭論文の「ヨーロッパは何を欲するか Que veut l'Europe」もそれほど4月の段階のフランスのアクチュアリティにそったものではなかったので、読んだときは肩透かしを食ったような気になったのだが、今読むと、憲法条約に踏み込んではいないが、上記のような陣営選択の署名をする立場をうかがわせるものがある。そこで読み取れるのは、欧州統合がその外と内を分けるあらたな壁を作り出していることの批判と、次のような暗示くらいである (この論文はどういう経過かはわからないが、英語ヴァージョンとともに、ネットにのっている)。

What we find reprehensible and dangerous in U.S. politics and civilization is thus A PART OF EUROPE ITSELF, one of the possible outcomes of the European project. There is no place for self-satisfied arrogance : The United States is a distorted mirror of Europe itself. Back in the 1930s, Max Horkheimer wrote that those who do not want to speak (critically) about liberalism should also keep silent about fascism.

そこでホルクハイマーの言を借りて引き合いに出されている liberalism への批判的言及が、この憲法条約についてのニューリベラリズム批判とどう接続するのかよく分からない。

いずれにせよ、ガーディアン紙発表のジジェク論文の論旨が「あと出しじゃんけん」かどうかこれ以上追求しても、あまり意味がなく、むしろ要点は、これがフランスの論争で喧伝された一つの論を追認し、事後的にギャランティーを与えるものだということである。

そしてそのこと自体は、彼の政治的選択で尊重すべきことだが、私がそこで気になったのは、そこにある迷いのなさ、確信に満ちた調子だった。逡巡している人間からみたひがみなのかもしれないが。

全欧州的なレベルで見て欧州憲法が現実にどう存在するべきか、しうるべきかへの考察なく、フランスの政治状況あるいは手続き論におけるポジションの選択だけで、全体を割り切っていいのか。そう思っていたところ、flapjack さんは翌日のエントリー(id:flapjack:20050606)でまさにその点を衝いた。前者の問題、つまり、欧州憲法の直面する現実についての顧慮をもったロビン・クックの発言と対比させながら。この点について、英国のコンテクストから、flapjack さんがジジェクの論の実りのなさになげかける疑問は、私のこうした疑問と符合する。

もう一つ私がジジェクの論で大きく気になるのは、政治エリート、メディア・エリートと対比させられる民衆の概念を持ち出し、それに「ノン−われわれ左翼−わたし」をアイデンティファイするそのナイーブさである。

今回のフランスのウィとノンの間の闘争は、まず、政治家のレベル、知識人のレベルで展開されたことを見落としてはならない。ノンには、前者のレベルで、極右はさておいても、かつての政権党であり最大野党である社会党に、元書記長のエマニュエリがいたし、そして何より、党No 2で首相経験者のファビウスが将来の大統領候補選出をかけてイニシァチブをとった。共産党が党運をかけ組識を動員し、極左諸派が新旧のメディアの寵児、アルレット・ラギリエ、オリヴィエ・ブザンスノとともに加わった。もとより、社会党の分を抜いても、極右とこれら左派勢力をあわせれば、2002年の大統領選挙の票割りでは、現職首相だった社会党候補のジョスパンどころかシラクの支持票をもかるがると抜き去っている。さまざまな市民団体の理論的支柱には、グランゼコール出の知識人、大学、国立研究所に席をおく人々がいた。印刷メディアでも新聞や雑誌の主流はウィ派で占められたが、単行本ではむしろセンセーショナルなノン派は優位だった。テレビでは、ノン派は視聴覚メデイァの監督機関の介入を引き出し(もちろん正当な権利といえる)、発言時間の50%vs50%の遵守を得た。そして主流メディアで劣位の条件で出発したノン派は、ネットをウィ派よりも、よく、そしてうまく利用した。

これらの闘争はなにより、民衆の声の代表者という表象をその賭け金として、行われた。そして、欧州統合がテーマとなる論争において、一般的にその資本の配分がもともとノン派のほうに有利だった以上、この闘いはノン派にた易かった。しかし、おおよそある問題について、一つの立場を、民衆の声に同一視させられる地位を得るのは、それ自体が権力どうしの闘いである。テキストを読まない多くの人々−−価値判断を抜きにして事実としてその存在を認めないわけにはいかないだろう−−に対し、ある一つの解釈をとらせるのは、知的な権力の行使である。そしてまた、左翼知識人がある言明で、自分の立場を民衆の声に同一視させるのは、そうした効果のある、一つの権力の行使であるはずだが、その権力に気づかないのは、あまりにナイーブにすぎはしないだろうか。もちろん知識人は「参加」するために、その権力の危うさに気づきながも、それを括弧に入れて、戦略的にふるまうこともできる。しかし、ジジェクの文章を読みながら、そのあまりに屈託のない調子に、彼が他の場所では見せる鋭敏な観察者としての営みの片鱗も感じられないばかりか、5月29日の夜の勝利のシャンパンの勢いで書かれたようなあれこれの声明文にみられる陶酔と同じものしか感じられなかった。